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10月, 2016の投稿を表示しています

十一月・十二月の予定

十一月・十二月の予定をお知らせします。 十二月の親子整体塾は三日→十日に変更になります。 個別整体・各稽古会スケジュールは 予約・稽古日程 欄からご覧ください。 稽古内容については 身体塾稽古会 欄をご覧ください。 日程が変更される場合がありますので、こまめにご確認ください。 単発の稽古内容については参加人数、参加者等で決めていますので事前に知りたい方は 右記メールフォームからお問い合わせください。 体験者の声 追加しました。 十一月・十二月は自分の整え方はもちろんですが、いったいここで言う身体感覚とは何を指しているのかを整理してから実習に入りたいと思います。 身体を整理することによって、心も整理されていくことでしょう。 知覚のレベルを上げる様々な取り組み方を紹介して、生活に役立ててほしいと思います。 初めての方は昼の部から参加することをお勧めします。 会員の方は月に必ず一コマ(二時間)以上、参加してください。

違和感

この間、テレビでヒップホップダンサーで有名な人の動きを見た。 いわゆるキレッキレッな動き。 骨から動いている感じ。重力もものともしない。軽やかに舞っている。 すごく男らしい動きだ。 世界的にもこれだけのダンサーはいないんじゃなかろうか? しかし、なんというか顔つきは少し険しい、触れると爆発しそうな恐さがある。 ビックリしたのは彼だと思っていたら彼女だった。 彼女はチームのリーダーでもあり、ソロでも圧倒的だが、チームプレーもまたいい。こんな人物がいたのか、と嬉しくなった。彼女を目指してダンスを習いだした子供達は多いらしい。 皆、凄く上手だから驚いた。 ヒップホップやブレイクダンスは骨の動きだ。日本の動法と相性がいいように思う。うちの子供もテレビを見ながら動き出した。 彼女の顔つきが険しい訳は番組の後半でわかった。いわゆる苦労をした人なのだ。ダンスにかける気持ちも本物だろう。インタビュアーの質問がいいのだろう。彼女の練習するスタジオでの会話は終始いい話が続いた。 番組の終わりかけで状況は変わった。 日本の伝統文化を紹介したいと、お寺でヒップホップダンスを踊る場面に切り替わった。これぐらい今や見慣れた光景になっているから別に普通だと思うのだが、爆音で仏の前で激しく踊る姿に何故か違和感を覚えた。 なんなんだろうな?この違和感は。 混ざり合わないもの同士を、無理矢理混ぜあわせている感じ。風景とミスマッチな違和感。 以前、鹿島神宮の境内で爆音でブレイクダンスをしている中国人達にも同じものを感じたが、神社に積み上げられた静けさがどんどん破壊されていく悲しさ・危機感とでも言ったらいいのか?その積み上げたもの、文化を踏みにじっている鈍感さとでもいうのか? 個人的には神社・仏閣は心静かに詣りたい。 そりゃ年に何回かの祭りや個人的に許しを得て借りている、とかならなんの違和感も感じないし、別に意見するところでもないのだが、場に合ってない気がするのは僕だけなんだろうか? 伝統文化を紹介したいなら、そのお寺で参禅でもしたらどうだろうか? そこに自分のものを持ち込まなくてもいいんではないかな? 自分のダンスに向ける集注と分けて、参禅やあるいはそこで生活してみてダンスの世

道具を選ぶ

武術でも整体の稽古でも、道具を選ぶときはスッキリした馴染むものを選びなさいと教えられた。 スッキリしたものとは気が澄んでいるもの、清らかなもの。 馴染むものとは身体がはっきりと見えてくるものである。 特に武器を選ぶときは少しでも違和感の感じるものは、相手にも自分にも怪我をさせるので、清らかなものを選べ、特に刃物類は慎重に選ぶべしと教えられた。 いわゆる「残留思念」というのが残っているからだろう。 馴染むものを探すときには、よく骨董屋や古着の着物屋に足を運び触らせてもらったものだ。 中世時代の能や武術、禅などによって練られた身体感覚を学ぶため、足しげく骨董やに通い、珠洲焼の壺に古九谷焼のとっくり。備前焼の抹茶茶碗。 色々触って腹、腰を知覚する稽古に役立てたものだ。 絹の長襦袢を何枚か買ってきて寝巻きにして、寝ている時も内観の稽古したりもした。 いわゆる睡眠学習です。 中には少し怖いものや羽織ってみると胸がつまるものや身体が嫌に重たく感じるものもあった。 そういう物は価値が高くとも身に付けない方がよい、場所選びでもそうである。 知覚の領域が拡大してくると、別に古いものだろうと新しいものだろうと何かしら感じ取れるようになる。それこそ形のない音楽やダンス、と領域は拡大してくる。機械的に作られたものやデザインであっても何かしらのものは感じ取れる。 日用品のものから練習していくといいだろう。気を付けなくてはいけないのは、刃物類や針だ。思いが籠りすぎている。だから針供養なんて習慣があったのだろう。 特に一度使った真剣というのはなんだか生々しくて、受け付けがたいのだ。 しかし、そこは除けば数多の豊穣なる身体感覚の世界がそこにはあった。なんとも細やかで深遠なる世界だ。過去の世界には戻れないし、その必要もないが、古典の世界からは学ぶことがたくさんある。 一度お試しあれ。

結婚式

イメージ
昨日は友達の結婚式に参列してきました。   朝早く起きて琵琶湖を横目にサンダーバードで。 いつも京都研修三日間を終えた後に冷やかして帰る。かず君&萌ちゃん夫妻 なぜか会場にはヤギが!? 会場は古民家を改装したマクロビレストラン 新郎&新婦入場!! 二人ともホテルマン経験者なのでか外人多し 偽神父!?の下で愛を誓う二人 子供たちも二人を祝福 ひなたちゃんという女の子がいて、名前を呼ばれるたびにドキリとしました  引き気味な新婦と強引な新郎!? いいニヤケ顔やな ツリーハウスの下で踊りまくる新婦  ドレスのまま踊ってるのはすごいな 最後はケーキ入刀!! 二人の門出にふさわしいいい結婚式でした。 独り県外からでアウェーな空気かと思いきや、かずくん家の方たちに迎入れられ京都駅まで送ってもらっちゃいました。感謝。 これから宿も始める二人。宿の名前は「京都 KNOT vacation」 knotには結ぶという意味が込められているみたいですね。 京都には行った際にはぜひ立ち寄ってみてください。 ほんとうにおめでとう!!また冷やかしに行きまっせ。

確信に変わってきた

なんだか身の回りの変動が激しい。 一つ、繋がりが切れると、また一つ増える。 急に静かになったかと思えばまた激しく動き出す。やっと一つ仕事が片付いたと思えばまた一つ増える。 なんだか世界が慌ただしく動き回ってるかのような感じ。自分だけが取り残されている感じがしないでもないが不思議にも不安も焦燥もない。いや、少しはあるかな。 ここ最近は懐かしい顔がチラホラみえる。何年かぶりに調整に訪れる人がポツリポツリと現れてくる。 その人達の身体を見させてもらうと、何年か前の自分の調整した跡やその人の病歴までもが見える。 正直言って昔の自分は下手だ。 なんでこういう調整をしたか?その人の症状の改善に合わせて、ここを変えたかったんだな、と理解はできるが、今の僕では納得はできない。やりすぎているところもあった。 その人の身体に手を当て、過去の自分にこれにはこうするんだよ、と教えている教えてもらっている気にすらなっている。 不思議な感覚が訪れている。 過去の清算でもしてんだろうか? 少しは上手くなれたらしい。それが救いだ。半分見えてなかったところが見えるようになったんだろう。より良い技術を追い求め、数を増やし、時には理を求めやって来たが、技術の中核に同調感応性があると気づき、それだけを磨いてきたら、やり方が増えた。 それに伴ってか重病系の人達や変わった症例の人も来るようになった。 昔はそういう人たちが来ても、なにも出来なかったし、勢いだけであった。 今ならここまでの事はやれる、という思いが悔しさを連れて出てくる時もある。 思えば本当に整えかたも身体の見方も変わったものだ。 知覚のレベルがあがって来たんだろう。 でも、だからどうしたという感じだ。 これからも身体の中の自然の力、それにただただ寄り添っていくだけ。その精密さにホンの少し手を加えていくだけである。 それがだんだんと確信に変わって来ただけの事だ。

白山稽古会

今日は珍しく土曜の午後に予定があいたので白山稽古会に顔を出すにした。 この稽古会はずいぶん久しぶりに参加。 ひょっとして五年ぶりくらいではなかろうか? 以前は京都稽古会と丸かぶりの日程だったので参加できなかったのだ。 しかし、担当のSさんが京都に落ち着いたこともあって日程が月の中旬にずれた。 そこでたまたまこちらも都合がついたので参加することにした。久しぶりの方にご挨拶。 僕のところに個別指導を受けに来ている、来ていた人もちらほら。 最近顔みてないなーと思っていたらここに来ていたのか?と懐かしい顔もあった。 参加者は皆、感覚がいい。 基礎がしっかりできているという事だろう。 欲を言えば身体ができていれば、もっと深いところに入って行けるのかもしれない。 ゆるゆると進む稽古会に緩急あり動中の静在り。静中の動あり。 笑いありと、詰まることなく淡々と進む。 皆、楽しそうだ。 今日は珍しく参加者が多く、いつもは少ないらしい。 だがさすがSさん、年季の賜物である。 進行の仕方など勉強になった。 これに比べると僕の稽古会はいつも少人数で稽古してるので丁寧だろうが、少し硬く細かいのかもしれない。そこがいいと言ってくれる人もいるが、 やっぱりそんなにきっちりと教え込まなくてもいいのだ。自分の感覚に目覚めれば自然と育っていく。 少し、イデオロギーの方に偏っていたかもしれないなあ。整体の思想の方を教えようと躍起になっていたかもしれない と、気づくこと多々あり。 やはり人の稽古会に参加すると勉強になる。 同じ師匠から習ったことでも、この人はこういう切り口で調理する。あの人はこういうとらえ方で調理する。その人その人でとらえ方も組み立て方もそれぞれ。なのに共有できるからすごいのだ。 一つの¨場¨が出来てしまう、 そこが整体の稽古の本当に面白いところだ。 行ってよかった。もっと石川県に、いや北陸に稽古者が増えるともっといい。 やはり日本海稽古会だな。 SさんやYさんと共催できるよう頑張らねば。

月光浴

ちょっと日はずれるが十三夜だった。 今宵は満月。余談だが十五夜は中国からの風習で、十三夜は日本古来の風習であるらしい。 夜空を見上げれば大きな満月が顔を出してる。とても美しい。 古来から日本人は月を眺めて詩を詠んできたというが、なんだかそれにあやかりたい気分だ。 しかし、月を眺めているのは本当に不思議な気分にしてくれる。 怒り狂ってるときでも月を眺めて歩くとスーっと眉間が開き、上気したものが降りてくる。思いだそうとしても最早、散り散りになって心の中に曇りも陰りも見当たらない。 お月さま様だ。こんな日は夜の散歩に限る。 まさに真鍮の月といったところだろうか。酒飲みならこのお月さんと一杯やりたいだろうに。 先週、息子が大熱の時も一緒に月を眺めていた。片手にはりんごジュース。 「お月さま綺麗だねー?」 という火照った顔にはキラキラした目んたまが二つピカピカ光っていた。 「治ったらお団子食べるからね。買っといてね。」 しばらく眺めているとさっきまでの苦しそうな顔とは一転、スヤスヤと寝息をたてる穏やかな顔に変わった。 熱冷ましの月光浴だった。

風邪は脱皮

なんだかすごく急に冷え込んだ。 最近の季節の移ろいには節操がない。 夏が終わりまた梅雨に戻ったかのように感じていたら、急に冬が始まったかのようなかんじ。 身体の中を見ているとそう感じる。 秋の気配に誘われて出てくる細やかな感覚を無視して、いきなり冬だ。 こういうガクッと変わるときは体調の変化が著しい、この世を旅立つ人が多くなるのもこんな移ろいの時期に多い。 予約張を開いて、今週はなんだか暇だなーと、思っていたら息子が発熱。 無理もない。ああ、そういうことだったのね、と納得して保育園を休ませた。 嫁さんの体調がやっと安定したと思ったら次はこれか? 保育園に電話をすると、ただの発熱なんだが何かの感染症じゃないかと疑われ、それを証明する診断書等を作成しなきゃいけないのが大変面倒だ。 他の子どもたちにうつったら大変だから無理もないが、病気ではなく子供の成長ととらえればそれまでなんだがなー、世の中の原理はそうは動いていない。まったく保育士さんは大変である。 色々、説明するのも面倒なので休ませることにしている。この時ほど自宅で仕事をしていてよかったと思う事はない。 とにかく、息子は順調に発熱、身体が緩んですごく熱い、どれくらい熱上がるかなー?と思っていたら、夜中に40度くらいは出たもよう。せっせと整体の手当を行う。 これでまた丈夫になってくれるといいなーと 頭の汗を拭き、リンゴジュースを飲ませていたら、ワナワナ震えながら 「パパ、ありがとう。ありがとう」なんて言ってくれる。なんてかわいらしい奴だろう。 一瞬、熱性けいれんかと思ったが、おしゃべりは流調だ。 大丈夫だろう。 高まりきった熱は下降の波に乗り、平熱より下がる。その下がりきったところが峠だ。息子も順調にその経過をたどっていった。 最近はこう思う。 熱が高まっていくときにはさほど大した調整は必要なく、風呂の入れかたや発汗の誘導などでだいぶ馴れたもんだが、40度越えるとなると流石に少し焦る。整体を知ってはいてもやはりビックリする人は多いだろう。 下降の波を下り、平熱以下になったときの方こそ観察、調整が必要なのではないかと思うやはり気は抜けない。 この時から母親を求め出す。平熱以下になったので一肌恋しく、母親にピッタリ寄り添って体温を上げたいのだろ

台風の跡

昨日は珍しく金沢にも台風が来た。 進路を見ると日本海を北上し、まっすぐ金沢に到達している。 雷もそうだが、昔からなんだかワクワクする。 台風が金沢に直撃するなんて今まであったかなー? ないような気がする。金沢に住んでて自然災害を味わったことはまだないような気がする。 夕方から風が強くなってきた。 なんでが知らないが息子は爺ちゃんとお散歩。 強風にあおられ、パラパラ降ってくる雨にはしゃいでいたらしい。 「すごかったねー」と興奮気味に帰ってきた。 しっかりと自然の力に揉まれてきたらしい。 仕事が終わり九時ごろ、さあ帰ろうかと身支度をして外に出たとたん ザーッと降ってきた。 強風・大雨にあっという間に親子そろってズブ濡れ状態。 それでも息子は大はしゃぎ。 家に帰ってもっとひどく降ってくるかなーと思っていたら、雨は止み風も落ち着いてきた。 「つまんなーい」 と言い放つ息子に 「なんかあったら大変なんだぞー!」 と言おうとしたらもうすでに寝ていた。 嫁に似たんだろう。 夜中の二時がピークと聞いていたが、それから台風は過ぎ去っていったみたいだ。 朝起きて目が覚めるとなんだか清々しい。 色彩がなんだかきらびやか。 生き生きとしている。 台風がなんだかぐちゃぐちゃした古いものを一掃して、 新しい生き 生きしたものを連れてきた。 なんだかそんな気がした台風の跡だったが、被害は結構あったらしい。 ガラスが割れたり、木が倒れたりもあったらしい。 周りに何もなくて良かったが、自然の力に怯えながらも興奮してしまう 私は不謹慎極まりない愚かな存在かも。 でも、好きなもんは好きなのでしょうがない。

何処から?

この間、たまたまテレビをつけたらある音楽番組で女性アーティストのインタビューをやっていた。 デビュー秘話から話は始まり、ヒットした曲の裏話と続き、話はどうやって作曲をしているかの話になった。 作詞が先か、作曲が先かのどこにでもある話だと思っていたら、作詞が先の時はこんな感じ、作曲が先の時はこんな感じでしています。という感じで話は進み。 どういったときにインスピレーションを受けるか?の質問くらいから話は面白くなった。 その人は飛行機に乗っているときにメロディが降りてくるらしく、どうも空に集注を向けたときに曲が降りてくる事に気付いたらしく、簡単な録音機材を持ち歩く事にしたらしい。そして直ぐにその場で録音する事にしたらしい。 そうやってできた曲は身体が覚えていて、意識しないでも弾けるらしくライヴでも忘れる事はない。 ところがあるドラマの主題歌を頼まれたときは、映像を見せられ、この映像に尺はこれだけで作って欲しいと言われ、取りあえずスタジオに籠り何日かして作ることはできたが、その曲はヒットさえしたが、練習しないと忘れるそうだ。 作り込んだものほど忘れやすく、自然に即興的にできたものほど覚えているというのは人の持つ性質の本当に面白いところだ。 恥ずかしながら僕の拙い音楽経験にもそんな事があった。 作り込んだものと思いついたもの。 人為と自然。精神と身体。 馴染みが深いのはどちらだろう? 身体の調整でもそうなのだ。作りこんだ動きでは変らない。 自然に起こった動きに乗っかって調整していくと変わっていく。元に戻らない。 自分の身体を相手にしても、他者の身体を相手にしてもそうなのだ。なぜだか作り込んだものは飽きてしまうのだ。 こういった経験をしている話は作り手や芸術家や音楽家達からもよく聞く。 自然の力を呼び込むには型がいる。 いったい音楽や芸術や創造性を生み出す力は何処からやって来るのだろう?