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8月, 2016の投稿を表示しています

客人きたる

客人きたる 京都から大ベテランの整体指導者Sさんご来訪。 色々な整体話に花が咲く。と言ってもこちらは大先輩に比べればまだまだ若輩。 色々な話を伺わせていただく。とても参考になった。 「遠藤君の仕事場みせてー」と案内するも なんだか素っ裸を見られているみたいで恥ずかしい。 何を思われているんだろう?怖いな。 せっかく金沢に来てるんだからと接待。接待。 秘湯に案内して、ドジョウのかば焼き食べてもらおうとご案内しました。 このドジョウのかば焼き金沢でしか食べられないご当地ものらしい。ほんまかいな? お口にあっただろうか? 風呂から上がって頓挫している日本海稽古会の話で盛り上がる。 やはり金沢にも拠点があったほうがいい。使える場所は色々ある。 新潟のYさんは新婚ほやほやで動けそうにもないが、もともとは彼が発起人。 来年あたりにでもしたいねー考えていこう、 と実現に向けて明るく語って解散。 今年に入ってから整体仲間のご来訪が続いている。とは言っても皆さま大先輩。 いっぱい金沢の事を知ってほしい、楽しんでほしい。 整体仲間が気楽にスーッと来てくれればもっと金沢も盛り上がるだろう。 こうやって訪ねてきてくれるのはほんとにうれしい。 次は茶室見学でも企画しようかな?

楽縁堂概要の変更について

少々、会費額について変更いたしますのでご了承ください。 ・子供の整体個別について、未満児(一歳半以降~)大人の半額、またはお気持ちで。 ・誕生日操法につきましては、大人の半額いただきます。 ・月三回目以降の個別は通常会費の半額で結構です。 基本、操法日の予約については 水 の波、一週、 二週ごと、(七日周期のサイクルで弛緩と緊張が移行している定型の波。女性の生理・妊娠・出産はこの波でもって行われる。予定日などもこれで計算している。身体の波) 気 の波、十日ごと、(社会的なものや共同体などのものからくる不定形の波。) (身体に排泄の欲求が起こっている場合はこの二つの波が重なり合って発病すると言われています。中毒や怪我や不調等はこの波を参考に予約されればいいと思います。) 打撲、打ち身、骨折、急な体熱などの緊急時は四日ごとに観察が必要なので、そのように予約を頂いております。お仕事や家庭生活のご都合のつく範囲でお考えくださればいいと思います。 ・遠隔について 遠隔には場所・どういう体勢か、時間帯、部屋の間取りなどの詳細な情報を打ち合わせての上となりますが、現在はよほどの緊急時でない限り行っておりませんのでご了承ください。 以上、わからないことがありましたら、直接おたずねください。 参考までに書き記してみました。

川遊び

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昨日は友人夫婦に連れられて、十二が滝というところへ。 家の中は暑くてだれるので、涼しいところへ行こうという事で山にしようと準備していたら、 嫁さんが「そういえば、Sさんはなにしとるかねー?しばらく会うとらんね」 と聞いてきた。 「今日、旦那のMさん誕生日やわ。」 「じゃー電話してみる」 と友人夫婦に電話がつながり、色々な雑談を終え、今日は山の方に遊びに行こうと思う、と話していると 小松の方にいい滝があると教えてくれて、何やかんやと一緒に行こうという運びとなった。いいタイミング持ってますな。 機がそろう。気が合うとはこのことですな。流石です。 それで誕生日ケーキを買い込み、合流して十二が滝へ行ってきました。 虫もいないしそんなに深くもないので安全。 家族で遊ぶ分には丁度いい感じ。 こんなところがあったとは驚き。 本当に自然が豊かですな。近くにキャンプ場もあるみたいなので今度はたき火でもしようかな。 教えてくれた友人夫婦に感謝。 しかし、川遊びに来たのに水着も浮輪も何も用意してきていない私。 ベルトついたままズボンで入ってたら、嫁には呆れられ、 何から何まで友人夫婦にお世話になってしまいました。 もう笑うしかありません。だははは(笑) 滝に打たれ、大はしゃぎなわが子。 ちかくに白山権現の小さい社があったので参拝。 綺麗な蝶々が足元に なんだか白山さん関係のところに来るといつもこの蝶々見ている気がする。 一人目の妊娠の時もこの蝶々を見たとか嫁さんがそんなことを言い出した。 そういえばと、こちらにも思い当たる節がある。 そんなこと考えていたら帰り際に幼馴染に遭遇。 なんでこんなところで会うんだ?不思議やなーと、帰って写真の整理してFBに上げていたら、何名かの知り合いの方からも「丁度同じ時間、そこにいました。」なんてコメントを頂く。 一番面白いのは、父親の友人の方から、 「お父さんも若いころ、そこでパンツ一丁で泳いでましたよ」なんてコメントを頂く。 親子三大パンツ一丁で同じところで遊んでるなんて出来すぎた話だ、と思ったが これも白山さん効果だろうか。 白山さんの

張り合い

命の張り合いというと少し暑苦しく聞こえるかも知れない。 一生懸命とか命をかけてやる、とか捨て身とか色々な言い方はあれど本気を出す、という事だろう。本当に命を捨ててはいけないが、人間には追い込まれると発動する力が備わっている。ほとんどの人がそんなことを知らずに死を迎えていく。 戦時中、いつも嫁に捕まってしか歩けないヨボヨボの姑が東京大空襲の際、風呂敷に仏壇担いで誰よりも早く逃げ回っていた話を聞いたことがある。 俗にいう火事場のくそ力とはこの事だろう。 この手の話を集めるのは本当に楽しい。 以前、学生時代に読んだ、金子 郁容の ボランティア―もうひとつの情報社会 (岩波新書)  で人はヴァルネラブルな存在=対攻撃脆弱性つまり弱い存在である、だからこそ強くなれる余地がある。精神的逆境的強さを発動させるためにあえて、逆境に身を投じよなんてことが書いてあったような気がする。彼はこのことを言いたかったのかもしれない。 整体の勉強をはじめだした頃、野性味溢れるR氏の紹介で縁あって沖縄の古武術、本部御殿手の道場で体験させてもらう機会があった。 整体も武術も相対稽古で持って行うが、その本気と本気のぶつかり合いに心うたれ、自分のやりたかったことはこれだったのだと感動したことがあった。 整体はより深い生存の充実を求めてお互いを整え合う。武術は戦場で生き残るための方法論を学ぶ。相手の動きにつられて、自分の動きが出てくる。相手もまた同じ。それに合わせて高まってくる勢いというか働きが、一人で行う運動や体操では物足りなさを生じさせた。 どちらも誤魔化しは効かない世界だ。 中途半端なことをすれば、それが即、自分に返ってくる事を思い知らされる。 そのシンプルな世界観に惹かれた。 それから武術の方は師事していた方がなくなってしまったのと、整体の勉強が面白かったので遠のいてしまったが、大変勉強になって自分の一部となっている。ご縁を頂けたことに感謝している。 今にして思えばやりたいことが見つからず途方にくれていた十代の終わり、音楽の世界に 逃げ込み、二十代前半から、始めたバンド活動もこの張り合いを求めていたのだ。とんがりまくって、ヤクザまがいのおっさんや学生運動に興じたおじさまに絡まれたり、絡んだりしたのも、追い込ま

瞑想と内観

瞑想と内観。 両方やってきてみて思う事は、全然別物だという感想だ。 最初はどうも混同して理解していたような気がする。 以前、ヨガ・セラピストをしている何名かの人と身体の話、人間の可能性について話をしていた時がある。 彼・彼女らも身体関係の仕事をしているのでそういう話になった。 彼・彼女らは首が痛い等、腰痛などを訴えて僕のところに来ていたのだが、普段どういう身体の稽古をしているかで話に花が咲いた。 その人たちも瞑想や内観と言ったことをやるらしく話を伺っていると、 「毎日、内観してるけど腰が痛いから、そこだけ外してやっている」ようなことをおっしゃる。 ふと疑問に思い、「ずいぶん僕らが内観と言ってることと違うなあ」、とも自分が腰痛を内観して良くなった経験とは違うなとも思ったことがある。 そういったことから、自分の経験しているものと彼・彼女らのやっていることのどこが違うのかと考えるようになった。年季を重ねるにつれてその違いはどんどん明白になっていった。 両方とも自分に集注する観察する、という事は共通しているが、出来事としてまったく違う。 方向性が違う。 瞑想は自分を客観化する。 明晰、明瞭にしていく事を喜びとする。 自分が集注している事を一旦、括弧にいれる。そしてそれを解析、分析、識別する事に長けている。 つまりは科学の世界だ。 禅は自分を客観化する事を目的とするが、主観しかない状況の時には、客観がセットで働くだろうし、例えば戦国時代、毎日各地で紛争が起き、食べるものもない、政治は腐敗し、権力者は富を肥やすといった苦しい状況から脱却するために客観化、俯瞰視が生まれるのは当然の生活の知恵と言えそうだ。 もちろん、それだけじゃないだろうが。これだけ現代は見えないものを数値化、計量化し、それを採用している科学文明は、道元さんの時代から見れば、皆、客観視に達観している、その代わり自分の感じている世界、経験の世界がおざなりになる危険性がある。そういうことをおっしゃっている方もいたがなるほどと頷けてしまう。 一旦、括弧にいれるというのは自分に起こっている出来事、感情、情感、情緒、思考から離れて見るという事となる。そうやって自分を構造を理解しようとする。 しかし、それだけでは、やはりどこまで行っても理屈と

Ry Cooder Paris, Texas

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身体感応

精神感応というのが ある。俗にいうテレパシー ってやつだ。 SF小説なんかによく出てくる。 シンクロ(同調)という方がわかりやすいかもしれない。 ふと、誰かの事が気がかりになる。 すると、その本人がひょっこり現れたり、電話がかかって来たりする。 そんな経験は誰しもあるだろう。 ウィリアム・バロウズという人は幻覚剤、向精神薬を用いて感応の実験を繰り返し、集団で一つの飛行機を飛ばす、何て事を実験していたらしいが、人間の可能性についての研究は面白いが薬物に頼るところが面白くない。 ところで薬効の近代史は戦争の歴史とセットだ。 屈強な兵士を求め、筋力増強剤の開発、即効性のある鎮痛剤、気分を高揚させる向精神薬といった具合で、 強化人間育成のために様々な薬が戦争のために開発された。 そのおおもとになったのはアフリカやアメリカの先住民の薬効の知識・メディスンマンやシャーマンと呼ばれる呪いし祈祷者たちの知識。 いわば彼らのシャーマニズムを徹底研究し、最大限の効果をあげるために開発されてきた歴史がある。 この時点で我らに馴染の深い、薬草・生薬・漢方とは方向性が違ってきている。 その方向性はオリンピックの祭典へと引き継がれている。その根底には治病よりも超人願望があるだろう。 戦争のもたらしたものはそれだけではない。 通信技術や戦地に兵士を大量輸送するための輸送機、その果てが核まで生み出した。 それらとスティーブ・ジョブズ等のアップルグーグルの登場やネットやSNS等の発展は地続きのものだろう。 それだけでなく医療や科学の発展も精神感応の世界を科学技術によって応用可能にしてきた近代合理精神の賜物だろう。禅の悟りの境地をマインドフルネスとして研究してきたり、ユングの集合意識を情報技術によって可能にしようとしてきた。 近代はこうやって発展してきたが、それ以前はどうだったのだろう。 物質世界の誕生によって人の精神性は隅に追いやられた。そして、それ以前の生活感・自然観、人間性を取り戻そうと様々なイデオロギーや運動が展開されてきた。 しかし、それは精神の探求をしてきたただけのことで、それだけでは人間の営みは語れない。はなから片手落ちだ。 それだけではアクセルだけでブレーキがないように思える。少々行きすぎのよ

俳句してみた

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月一回の書の稽古 今回は細字 まだまだ暑い日が続くが旧暦の上では初秋 今日確認したら、今日は七夕だった 願い事でも書けばよかったなー それからお盆が来る 先祖たちが帰ってくるということで 「客人」来る なんかいい題材はないかと古本屋で見つけた芭蕉七部集をひっぱりだして、 芭蕉の俳句に連句をつけてみた 五、七、五の句を読んでから書き、それを見て思いついた七、七を付けるというもの ・かたびらの ちぢむや秋の ゆうげしき ・一葉散る 音かしましき ばかり也 ・秋風に 身を任せれば 下駄の音 どれだけ練習してもいっこうに上手くならない しかし、それでいいのです 鑑賞の仕方が上手くなればそれでいいのです 連句にしても連歌にしてもやってみればわかるが相当面白い 私見だがラップのフリースタイルバトルやレゲエのラバダブスタイルなんかも あれは連歌や連句だと思っている 連歌・連句の風 金沢に吹かんかなー

花火

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花火 夏の風物詩 戦争の道具にも使える火薬 空に打ち上げればこんなにも美しいのです 一体誰が思い付いたんだろ? やっぱり一生懸命に写真に収めても一瞬の美にはかなわない 歩いて近所から花火鑑賞ができるのは本当にうれしい 花火師とか憧れるなー 息子ならんかな? 上の子だめやったら下の子ならんかな? たまやのハッピ着てアイスクリームの白鬚蓄えて でっかい声で「ならん!!!」と言うとりました

初連座

京都三日間研修を終え、H氏の連座基礎に初参加。 等持院は二回目。 Hさんの講座の進め方にも大変興味有りなのだが、噂に聞く連座をどうしても経験したかった。 基本、連座は四人一組。それぞれの役割が違う。3つの役割がぐるぐる回る。 整体操法のスタイルを踏襲しているが、色々なルールが設けられるし、参加条件も色々ある。 今回の内容はその導入までで稽古は終わったがやはり面白い。 本当に面白い稽古がたくさんある。やることは四人一組で一人の人を立たせる、座らせるといったことだが、なんだかその座らされた人がとても綺麗になるのだ。 是非こちらでも展開したいものだが、それには課題が山積みだ。 連座と名付けられたこの稽古。 やることはすごいシンプルなのに、 どんどん深みが増していくというか 場が変わる、何かが整うという事に尽きるのかもしれない。 場が整う。その場にかかわる全員に何かスーッと通るものがある。 参加した全員に共有される何かがある。 こういう経験ってなかなかないかもしれない。 この感覚をどう表わしたらいいものか。 やはり連座と呼ぶのが相応しい。 能にもシテ、ワキ、ウタイとそれぞれの役割があり、回ってくる。 それぞれがそれぞれで独立しているから合ってくる。 なんだかそれに近いような感覚。 どこからか始まりがあり、いつしか終わりが来る。その過程に皆が参加しているという感覚。 だれかが、場を整える技芸としての整体と表現していたがこれは なかなかすごいことかもしれない。