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11月, 2016の投稿を表示しています

オカルト話は興味がない

なんだかおかしな日が続くって言うのがある。 とあるお店で久し振りにオーナーさんと話し込む。話はどんどん転回して、物販の話から客層のはなし、共通の知人の話。 「うちにはこんな客層が来るのですよ~」 という話から、なぜか守護霊や憑き物の類いの話へ。 こういった話は慣れっこ。 「え~、見える人なんですか!?」と問われれば、 「なんにも見えませんよ。」と答え。 「整体は基本、見えないものを相手にしてるんですよ、」 と話を誤魔化すのが僕の定石。 基本的に不思議大好き不思議ちゃんは疲れるので相手にしない。が 、憑いた憑かれた、見えた見ないの話もまた興味がない。 生き霊だの前世だのUFOだの宇宙人・地底人だの、空想は生々しい現実とセットなので別に持つのは悪くはないが、このての話もまた話し手によって楽しめたりイラついたりするから不思議だ。 というか、整体稽古者はこの不思議ちゃんが多いのか? まあ、僕もすでに片足突っ込んでるようなものだ。 人の事を言えなかったな。 この日もこういった感じで話を合わせる。 楽しめそうだったからだ。 (うちに来る困ったちゃんは色々なところでしょうもない霊を連れてくる。 毎回無自覚にそれらを引き連れて店に入って来ちゃうから疲れる。 どうしたらいいものか?見たいな事を相談された。) (俺に言われてもな…一体、俺をなんだと思ってんだろう?。 っていうか、お客さん放っといてこんな怪しい話をしてて大丈夫かね? ってなことを思いながら話は進む。) (霊に取りつかれやすい体質なんかないだろう。 どうだっていいはなしでもある。 その人は、ただ八方美人で無防備なだけだ。 霊に対してそうなら、人間の世界でもそうに決まっている。 自分の意見なんかなく、ただ人の言うことに乗っかってるだけだと思う。 霊に対しても愛想振りまいてんだ、と答えた。) それがもの凄く腑に落ちたらしい。 スッキリした顔に変わったので、店を後にした。 それから遅い夕食をと入った友人の店にでもまた霊の話。 (また?そんな霊感高かったっけ!? なんか今日はそんな日なのか?やたらとこんな話が続く。 金沢ってこんな人多いの?自称シャーマンばかり?) 頭は疑問符でい

体幹を使って書く

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昨日は久しぶりの「書」の稽古。 ここ最近の題材は松尾芭蕉「奥の細道」から。 一句選んで細字の稽古。相方はそれに思いついた、七、七をつけるというもの。 まあーいわゆる連句というやつですな。 代わりばんこに相手が書いた句に、連句をつけていく。 昨日はそれに一つ、一つ縛りを入れていく。 例えば、手は封じる。 右手で筆を持たない、足を動かさないといった具合。 そうすることで体幹が動き出す。 と、ここまではいつも通りのやり方。 昨日はそこに動きを細やかに分解していく。 腰の骨、腰椎は五本ある。五本の動きを分解するなら 腰椎一番は上下動、 腰椎二番は左右動、 腰椎三番は捻転動、 腰椎四番は開閉動、 腰椎五番は前後動。 この五つの動きをかきだす文字に変換させていく。 つまり、縦線は上下動、横線は左右動で。払い、はねは捻転動作。 止めは開閉・拡散+収縮の動き。 そして、墨すりの動きは前後動作で行う。 一文字書くだけでも相当身体を使う。 一句書いたらもうへとへと。七、七つけたらもう勘弁してくださいってな感じ。 と、ここまでやってみて、そういえば少し習った居合はこの原理に沿った動きだったといまさらながら気づく。 そうか、だから昔の剣豪は書の達人でもあったのね。宮本武蔵とか山岡鉄舟とかと一人納得。 S先生、不詳の弟子ですいません。 しかし、こんなハードな稽古を4時間やってる東広島稽古場とか各稽古場は一体どうなってんだ。尊敬しますわ。 昨日の稽古はすごく気づきがあった面白い稽古だった。 しばらくこのネタ使えそう。 いやー動いた、動いた。すっきりしましたわい。

舟を出そうよ

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歌詞がいい やなかーぎー紅龍

感受性が働いている

相当な音楽好きな先輩にお薦めの音楽を借りた。 以前聴いた事のあるCDだった。 何回も聴いた事のある音楽、展開が頭の中で想像がつく。懐かしい。 しかし再生ボタンを押して流れて来た音楽はまるで初めて聴いたかのような感覚に陥る。 何故? 何回も聴いたはず。まるで展開が読めない。一音一音の間隔が広い、こんな深みがある音だったろうか?思考が追いつかず音の一つ一つが身体に澄み渡っていく。しばらく余韻に浸っていた。 それからしばらくたってオサレーなカフェでお茶をしていた。いわゆる女子空間であり、オジサンな僕には少し敷居が高い。少したって店内で流れてきたのは先ほどの曲。 この前味わった感動はない。 展開の読めるいつものあの曲。気づけばメロディを追っかけていた。リズムとメロディは幾つもの点と流線形に置き換えられる。 何故だろう?同一のものなのになぜこんなにも聞き応えが変わるのか? 場所が違えば人が違えば印象も感受することもまるで違う。 いつも不思議に思っていた。 この人といればどんな曲も集注して聞ける。ファミレスで食事したって楽しい。 この人といると集注が変わる。この人と酒を飲むとまるで酔わない。この人といると嫌いなタバコの煙も何故か心地よい香りに変わる。居心地のよい空間とそうではない空間。 誰もがそんな経験があるだろう。 人は圧倒的に集注する存在であるという。 どんな行為や行動もそれに先行して観念を形成している。 それはその人の心の問題ではない。観念を形成している感受性の働きだったのだ。 不味いものを旨いと感じるのも、毒を薬に変えるのも感受性の働きである。 世界は完全で私は生かされていると感じたなら、すべての事象は私に同化していく事だろう。世界はねじまがり絶対悪そのものと感じたなら、すべての事象は私に異化されていく事だろう。 しかし、現実はその矛盾する二面性を併せ持っている。 人は無自覚にも何かを感じ取って生きている。 その感じたように変化を産み出している。 それを楽しむか?権力者のようにコントロールしようとするのか? そこに自由が与えられているかのように錯覚している。そこから生まれる競争は我先にと他者を蹴落とすサバイバルになるだろう。 快であろうと不快

連座 その二

京都三日間を終えて予定していたことがなくなったので急遽 西陣稽古場で行われる「連座基礎」に申し込むことにした。 参加枠にはまだ余裕があったのでラッキーだった。 西陣稽古場は初めてだ。最近色々な稽古場に行くことが多い。 いろいろ勉強させられるている。 西陣稽古場の担当者はTさん。 なんだかとても静かな落ち着いた場所。 水面が清らかな波紋一つない朝焼けの湖。そんな情景を思い浮かべるような稽古場だった。 京都の町中は道が狭い、一方通行の道も多くやっぱり金沢に似てる。 ん?金沢が似てるのか? そんな狭い路地裏にこんな静かな場があるとはだれも思いはしないだろう。 ほんとに稽古場によって空気が違う。と思えば通底している何かが共有されていたりもする。 誰かが稽古場スタンプラリーをすればどうか?と言っていたが気持ちはすごくわかる。 僕が独身者であったならそれに乗り出していたかもしれないが、その案は「回り稽古」として採用されることになったらしい。 とにかく連座は二回目、今回は参加者最多の15名、京間14畳?の空間に丁度の人数。 連座は4名一組で進むため、多人数を要する稽古だがこれだけ基本をわかりやすくしている稽古もないのかもしれない。 稽古を進めるにあたって何が難しいかと言えば、僕らの言う感覚や集注というものがいったい何を指しているのか?というところだろう。 一旦、その感覚を身につけてしまえば進化しかないわけだが、初心者にはなかなか内側に集注を向けるというところが分からないのかもしれない。 独りよがりになって思い込みだけ強くなっていってしまう人もいる。それだけ人は自分自身に目を向けたがらない。 連座という枠組みがそれをさせないようにできている 。求められる動作は単純だし、常に二人以上の他者がいるし、一人ひとりの役割が決まっていて、どこに目を向けたらいいか決まっているから 分、わかりやすいしおもしろい。 流れを追っていける目を養っていけば面白さと深みにどんどんはまっていけれるだろう。 以前、Sさんがブランクが空いて稽古の戻り方が分からない時に連座で復活できた、というようなことを仰っていたような気がするが、なるほどと頷けるのが連座だ。 まだ全然、概要しかわかっていないが取り入れたい稽古方法である。 A先生が地方ルールがで

稽古場の可能性考 その1

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京都三日間を終えて帰ってきた。 毎 回楽しいことばかりだが、今回も体調不良もなんのその気づけばあっという間に時は過ぎる。 しかし稽古場とは不思議な場所だな、とつくづく思う。 場所によって雰囲気が全然違う。 今まで行ったことがあるのは本部道場二か所と京都研修所、西成と等持院、白山稽古会に、今回は西陣稽古場にお邪魔することができた。関西方面が圧倒的に多い。 緩いところもあれば開放的な場所もあるが、通底しているのはその場にいると段々と鎮まってくる集注観。 小声でしゃべるのがちょうどいいような、それ以上のものは場の雰囲気を壊してしまう、というか壊したくない。とても清浄で落ち着くところ。それを出発点にガラリと表情を変え一気に賑やかになったりもする。 そのことを誰が教えるでもなく場が教えてくれるというか、自然とそうなってくる。 そこでの作法を学ばなければ入れない。そんなようなところか。 まあ、本来神社・仏閣もそういうものだろう。 そこでの空気を乱すことがなければあとはお構いなし。 そんな懐の深さを感じさせてくれる場所でもある。 稽古場には色々な方が出入りする。老若男女年齢もバラバラ。 様々な職業人の出会いの場でもあったりする。 皆が内側に集中を向けた稽古の合間合間の、休憩時間にくるりと様相を変える。 ある時は皆で談笑を楽しむサロンだったり、そこに通う陶芸家の展示会だったり、それぞれの活動の発信の場でもあり、情報交換も盛んに行われる。 商店街にもなったりもする。下駄屋がいたり、稽古着になる着物屋がいたり、竹細工屋がいたり、 袴の仕立て屋、ホームメイドのジャムやクッキー屋さんがいたりと何ともにぎやかしい。 整体・内観を稽古する仲間が日常品を持ち寄り、それらが行きかう。 市場がたつ。そして、それぞれの手作りの商品や作品には整体の身体技法や思想が生かされている。 ここで行きかう商品のやり取りは一般的な経済思想を根底に置いたものとは全く違うように思える。もっと原始的というか商いや交換経済の原型があるように思える。人間に商品価値を付加した経済思想とは真逆のような空気感。 皆、和気あいあいとやっている。当然空気が動いている。 こういう風景を見ていると、経済が豊かさを生むのではなく、文化という共有されたものが産業を生み、豊かさを伴っ

Louis Collins (Pizza Tapes)

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Jerry Garcia and David Grisman - Friend of the Devil

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Jerry Garcia & David Grisman - Shady Grove

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