違和感

この間、テレビでヒップホップダンサーで有名な人の動きを見た。

いわゆるキレッキレッな動き。

骨から動いている感じ。重力もものともしない。軽やかに舞っている。
すごく男らしい動きだ。

世界的にもこれだけのダンサーはいないんじゃなかろうか?
しかし、なんというか顔つきは少し険しい、触れると爆発しそうな恐さがある。
ビックリしたのは彼だと思っていたら彼女だった。

彼女はチームのリーダーでもあり、ソロでも圧倒的だが、チームプレーもまたいい。こんな人物がいたのか、と嬉しくなった。彼女を目指してダンスを習いだした子供達は多いらしい。

皆、凄く上手だから驚いた。

ヒップホップやブレイクダンスは骨の動きだ。日本の動法と相性がいいように思う。うちの子供もテレビを見ながら動き出した。

彼女の顔つきが険しい訳は番組の後半でわかった。いわゆる苦労をした人なのだ。ダンスにかける気持ちも本物だろう。インタビュアーの質問がいいのだろう。彼女の練習するスタジオでの会話は終始いい話が続いた。

番組の終わりかけで状況は変わった。

日本の伝統文化を紹介したいと、お寺でヒップホップダンスを踊る場面に切り替わった。これぐらい今や見慣れた光景になっているから別に普通だと思うのだが、爆音で仏の前で激しく踊る姿に何故か違和感を覚えた。

なんなんだろうな?この違和感は。

混ざり合わないもの同士を、無理矢理混ぜあわせている感じ。風景とミスマッチな違和感。

以前、鹿島神宮の境内で爆音でブレイクダンスをしている中国人達にも同じものを感じたが、神社に積み上げられた静けさがどんどん破壊されていく悲しさ・危機感とでも言ったらいいのか?その積み上げたもの、文化を踏みにじっている鈍感さとでもいうのか?

個人的には神社・仏閣は心静かに詣りたい。

そりゃ年に何回かの祭りや個人的に許しを得て借りている、とかならなんの違和感も感じないし、別に意見するところでもないのだが、場に合ってない気がするのは僕だけなんだろうか?

伝統文化を紹介したいなら、そのお寺で参禅でもしたらどうだろうか?

そこに自分のものを持ち込まなくてもいいんではないかな?

自分のダンスに向ける集注と分けて、参禅やあるいはそこで生活してみてダンスの世界にもこうつながった。心静かに踊れるようになった、というような物語ならばよっぽど共感できる。

神社・仏閣というのは心を鎮める祈りの場であったり、そういう時間の蓄積、歴史性を身に染み込ませる場ではないだろうか?

イスラムのモスクやクリスチャンの教会でそんなことする海外のアーティストっているんだろうか?

ロックバンドのニルヴァーナでさえ教会で演奏するときはアンプラグドでしていたし、それは祈りの場に相応しくないから、と感じ取ったアーティスト側の配慮であるだろう。
そこは遊びの場ではないから、ストリートで面白い事が生まれてきたんじゃないだろうか?

なんだかこの混ざらないものを無理矢理混ぜ合わせているような事に違和感を感じる。
そしてまた、皆こういうようなことを言いたがるしやりたがる。

集注観がまるで違うように感じる出来事たちが、無理やり合わせられ、それが当たり前の光景のようになっていくのだろう。

そういう空気の違いが分かる人が、年々減ってきているような気がする。





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