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6月, 2018の投稿を表示しています

七月・八月の予定

七 月・八月の 予定についてお知らせします。 やっと本格的に暑さが到来してまいりました。 先月は停滞期を中心に稽古してまいりましたが面白かったですね。 頭だけの理解に終わらず身体・感覚を通して積み重ねていく事が 、どんなジャンルを通しても言える事であり、いつでも新鮮な感度を保つ 秘訣となりそうです。 ・さて、七月もイベントごと満載の月となりそうです。 観能の夕べも始まりますし、また会員の皆様で予定合わせて一緒に行きましょう。 参加者の皆様はご都合をお知らせください。 予定が合い次第、ブログにてお知らせしたいと思います。 ・日曜の稽古終了後、となりの中川一政美術館を訪れたいとも思っておりますので、興味のある方はご一緒しましょう。 ・7月7日は七夕ですので、短冊に願い事を書いて持ってきてください。 ・稽古会の予定を11月まで更新しました。ご確認ください。 ・8月の中頃は東京出張です。今回はいつもより少し長めの滞在予定なので、個別指導承ります。 ご希望の日にち、時間帯をお知らせください。 ・ 動法講座・稽古会は未会員の方でも参加で きますが、二回目以降の参加は入会の必要がございます。 会員の皆様には、毎月、機関紙「月刊全生」が郵送されます。 詳しくは楽縁堂にお越しの際お尋ねください。 『各稽古会』→『場所』クリックで開催地が表示されますのでご覧ください。 初心者の方は要予約となりますので右記メールフォームにて、 1、お名前 2、連絡先 3、参加動機 を添えてご送信下さい。 最新版のスケジュールは 予約・稽古日程 欄を。 稽古内容については 動法稽古会 欄をご参考ください。

リスク

この間、初めましての人が整体のリスクは何ですかとお尋ねになられた。 そこでふと、10年位前にマッサージの仕事のメリット・デメリットは何ですか?と尋ねてこられたかたを思い出した。 当時は違和感満載で、何を言ってるのかわからず、ギターひきだったので、 「では音楽のメリット・デメリットは何ですか?」 と返したら、ひどく困って 「そんな事は考えた事もない、音楽は喜びだ。」と仰っていたが、 「貴方が今した質問はそういう事なんですよ。」と返すと納得したようすだったので、 「仕事は人に士(つか)えるとかく。 そうしてあたわるもので、経験した上で語るならともかくメリットとかデメリットとか最初に自分本意に考えるものではないのでは?」 と続けた。 まあ、今考えると当時はそういう就活論が流行っていたのだろうし、ご本人は不安で、その仕事をやっていて楽しかった事や苦しかった事などの経験談を聞きたかったのだろうと思ったが、少し選ぶ言葉が悪かったのだ。 メリット・デメリットで聞くものだから、損か得か?と聞かれたようなものだ。 その仕事に呼ばれたからそれに応じたのだ、と語る他ない。 損得でなく呼応したわけだ。 それが私の職業意識や判断基準を創って来たのだな、と教えてもらったわけだが。 しかし、今回はリスクときた。 メリット・デメリットも聞かれたような気もするが、これには困った。 聞きたい気持ちはわかるんだが、そんな事は考えた事もない。 その物事が己にとって損か得か危険か安全かはご自身で経験して判断していただく他ないだろう。 関わってもいない私にはまだ何も言えないのだ。 こういう考えを持つ人や、何気なしに使う人は世の大半だろうが、いっそもっとこのお考えを深めて義務教育を受けることの それや、毎日着る洋服の色とか車に乗ること、電気を使う事、生きることへのメリット・デメリット、リスクまで語ってはどうだろうか? 普段何気なしに選択している物事や思想を徹底的に洗いざらい考え直して見ればいいだろう。 それはひどく頭の疲れる事かもしれないが、生きていく事はそういう事だろう。そこに向かって仕事も整体も文化もあるだろと思うっている。 生きていく事の損得は生きてみないとわからない。 あえてリスクを語るなら、生命を充実させるような物事を選ぶ

先生

「先生」は偉大である。 先生という言葉には権威がある。 その権威が信頼関係を作っている部分があるが、世間一般で「先生」を名乗る人たちはどうか? 権威だけあって能力に見合っていない人もいるだろう。 そういう事がこの言葉のイメージを悪くしている。 本来、先生は自分で名乗るものではなく、人に言われてなるものだろうと思う。そこに込められた敬意と尊敬が関係性や役割をあたわり作られていくわけだ。 だから、私も「先生」を名乗る、そして呼ばれる職種である以上、人に言われても恥ずかしくない様にありたいと最低限心がけているが、呼ばれる事にも呼ばれない事にも違和感を感じる時がある。 医療や教育に関わる人達には「~~先生」と呼んでもらうことで、相手に対しての敬意と尊敬を込め関係性を円滑にしている。その結果として治療や教育がスムーズに行われる事が多々ある。権威がこのように使われれば乱用されることはないし、違和感もない。 子どもの整体指導でも親がこちらを信頼していなくては、子どもにも信頼されない。 親の態度をみて子どもは真似をする。~~さんと呼ぶのと~~先生と呼ばれるのでは子どもの受け取りかたは随分と違う様だ。 基本、僕のところで整体を勉強してる人達や、整体指導に来られている人達には先生と呼んでほしい等と強制はしないが、自分が学ぶ人への配慮や身体を任す、任される関係性への配慮は最低限するべきだと礼儀を学んでもらっているし、自分もそうしてきた。 こちらも身体を任してくれる相手に対しては礼でもって始め、礼でもって終わる様にしている。 どんなジャンルも礼は基本である。 先生や師匠等と呼ばれると少しこ恥ずかしいしガラでもないが、自分が弟子や生徒の立場である時、教えてもらっている人に「~~さん」や呼び捨てにはしないだろう。 自分が学んでいる人に対して「先生」と呼べない関係性はどうかと思うので、それが改まるようなら、教えることや整えるに対して本気になるようにしている。私が弟子や生徒の立場から物事を学ぶときはいつもそうしていた。 かといって形だけ「先生」と呼んでくる人に対してもどうかと思うので、同じように対処している。 どちらにしても色々教えても、使いこなせないか、「いいとこ取り」の浅い理解で終わるのは明白なので、相手がこちらをみる分、こちらも相手を観ることとなる。 弟子も

里山体験

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最近、息子は里山デビュー。 ↑漆の葉っぱらしく、秋になると一番に色付くそうな。 保育園のイベント事の一つで、知詰め込み型の保育~体験型の保育へ、ということらしいがインストラクターさんのお話しを聞いていてシュタイナーまで飛び出して来るとは思わなかった。 僕はシュタイナーがなんなのかはまるで知らないし、なんとなく意識高い系の人達の間で聞いたくらいの理解でしかないが、そこから野口整体までたどり着く人達もいた。 その話を聞いて「うん、うん」うなずくお母さん方に共感し、参加者としての自分と、山で遊ぶ子ども達に、昔の自分を重ねての経験者としての目線を、二重に併せ持つ不思議な時間となったが、時代は進んだのね、と実感。 この自然里山体験から稽古場でやっていることまで繋がる余地は充分にあり得るだろう。 子どもの身体をどう育てていくか?というところまでいけばいいわけだ。 僕らが子どもの頃は無農薬野菜を食べてるとか、里山で火おこしやカヌー遊び、竹細工にタケノコ掘りや農作業なんて言っても、親サイドは毎回たくさんの参加者が関わってはいたものの、小学校主体の地域社会では誰の理解も得られなかったように思う。変わったひとに見られるか、玄米食べてる貧乏人位の理解しかなかったのだ。 ところで僕が子どもの頃、遊び回っていた山々で川遊びや田植え、畑、桑の実や木苺を食べていた柳原が今や、猪対策で電気柵が張り巡らされ、子ども達の遊べる環境ではなくなったことに悲しい気持ちになっていたが、逆にこういった自然レジャー体験は増えていくだろう。 そういった人達がそこでの生活や文化を考え、守って行ければいいわけだが、ただのハイ・コンテキストなステータスを経験しました、で終わってほしくはない。一回消化型のエンターテイメントで終わってはナチュラル・フリー・リラックスの文脈に回収されるだけで、自然はいい、で終わるだろう。 それはなんとも面白くないのだ。 しかし、長男はそんな事をよそによっぽど楽しかったらしく、毎日の様に里山に行きたいというので樫見の叔父の家に連れていくことにした。 そこは山の奥の手。 半自給自足でセルフビルドしたドーム型の家がある。 猫も犬も鶏もたくさんいるので、長男も次男も大興奮。

どうしていこうか?

今までの自分の稽古はどちらかというと、操法をどう受けていくか?を 主要な問題として扱って来たらしく、言うなればどう集注していくか?集中とは何か? 感応・同調の確認が主体だったのだ。 教授資格があたわり、指導者共有の稽古方法の実践や報告書を目にすることができ、それが顕になった。 それと共に身体教育研究所の稽古法どう組み立てて行くか? それには当然、自分ができていないといけないわけで、整理手付かずの問題が山ほど在ることに気が付いたのだった。 今までも自分自身に向き合い、身体を理解、経験してきたつもりだったのだが、全く理解できていなかったことを思い知らされてしまった。 自分の身体に対するイメージを更新してきただけで、実際に触れてはいなかった。 稽古の当事者だと思っていたし、尊敬する師と先輩方に囲まれ、気持ちは身体教育研究所の一員だと思っていたが、まだまだお客さんだったわけだ。 自分に対しての門外漢だった。という言葉が一番しっくりくるかも。 指導者の皆さん、よくぞあれだけ稽古方法を生み出されるものだと感心してしまう。 そして、語る言葉の深みから見えてくる背景や年季に、うんうんともっと聞いていたい。 色々、とご経験されての今なのだな、と思ったりもする。 しかし、まずそこから。 自分が知ったかぶりしていたところから稽古を組み立てる事としよう。 日常の中で気づいたことや疑問に思う事を稽古・身体を通して実証していくのだ。 そう思うとなんだか楽しくなってきた。 幸いにも先輩方が開拓してきた稽古の種はたくさん在ることだしね。 あー報告書も書かなきゃいけない。 それはちょっと憂鬱だなあ。

内輪投げ

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京都三日間を終えて戻ってから、内容が深く素晴らしく楽しい過ぎたからか、こちらに戻ってからなかなか整理がつかず三日ほど心ここに在らず状態が続いていた。 新会員の人達の京都月末デビューも果たせたし、三時間ほどの正座は辛かっただろうし、稽古風景を見ていても馴染んでいたし、お土産も手に入っただろうから上々だったのだが。 とにかく今回ももらったテーマを暖めて膨らましていかねば、と心を此方に戻していく。 まだまだ整理のついてない問題から一つ取り上げ、場所を生かした事をしようと思い、そして 夜の稽古。会場は五十畳ほどの広い空間。 息の問題から型を取り上げ、 前半は息の吐き吸いから後半は毎年恒例のハード稽古に突入。 今回は内輪投げ。 内輪が飛ぶ飛ぶ。 畳の上をシュルルと滑って行く。 五つの運動性に五つの型を対応させて一つ一つの動きを分解。 時間も足りなく中の動きに対応させるところまではいかずも客観的な形までで留まってしまったが、とにかくひたすら黙々と内輪を投げる。投げる。飛ぶ。飛ぶ。 上手く飛ぶようになり、奥の畳まで行くようになる頃には、皆さん汗びしょびしょ。 いかに足が怠けているかがよく分かる稽古となった。 今度は中の動きに沿って型に入って行くところまではいきたい。 その前の導入部分をどうするかだ。 せっかく内輪を使える空間だから、そこら辺で考えよう。 やっぱり梅雨の時はこんなハードな稽古が必要ですね。 独りでうじうじ悩むときは、内輪を投げて汗どぼどぼかけばよいのだ。 稽古が終わる頃には雨も上がっていて、とても気持ちの良い風が吹いていた。 スッキリした。