10年
どんなものごとを習得するにも最低10年はかかると言われている。 この間、教授資格まで何年かかりましたか?と聞かれたので答えると、そんなにかかるんですか?とビックリされる。 一般的な反応は大多数こうだろう。1つのものごとに10年もかけれない。そんなに待てない。とこう考えるだろう。 僕もそう考えていたはずなのに気がつけば稽古場に通いだして8年あまり。あっという間に過ぎていき、免状を頂くこととなった。 それは師匠や先輩方が待っていて下さったからだろう。 10年という時間は私のものでなく、関わる皆さんとの10年間なのである。 10年あまりの時間をかけれたのは自分だが、10年間待っていてくださったのは師匠がただったのである。 その人が色々な問題にぶつかり、課題を自分で克服できるように時間をかけて待っていてくれたのは師匠方という存在である。 人が育つということをジーっと見ていてくれる存在だったのだ。 達磨は面壁10年。 その10年をただ壁だけを見て過ごすのか。 私だけの時間でなく他者と分け合う10年にするかは本人次第なのだ。 達磨大使もただ壁だけを見ていた10年ではなかったろう。 学びある10年は濃密に凝縮されてあっという間に過ぎていくものなのだ。 子どもだっていきなりは育たない。何年も時間をかけて段階を踏んで確実に成長していく。 すぐにできる子、できない子。色々な子ども達がそれぞれの時間をかけて段階を踏んでいく。 教育者は「できた」という結果を出させる存在でなく、できるようになる過程を歩ませる存在であるはずだ。 それに関わる時間はけして長いと感じる時間ではないだろう。 しかし、最近の認定保育園の時間管理システムや小学生のひらがな読み書きは家で教えてきてくださいの問題等を見ていると、どうも世の中は成長を度外視して結果だけを追い求めているように思う。 人が育つ事を待てない社会というのはいい社会と言えるだろうか?