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九月・十月の予定

九月・十月の予定をお知らせします。 個別整体・各稽古会スケジュールは 予約・稽古日程 欄からご覧ください。 稽古内容については 身体塾稽古会 欄をご覧ください。 日程が変更される場合がありますので、こまめにご確認ください。 単発の稽古内容については参加人数、参加者等で決めていますので事前に知りたい方は 右記メールフォームからお問い合わせください。 九月・十月は自分の整え方はもちろんですが、それ以前の自分の身の把握の仕方を紹介してから、空間のとらえ方や少しずつ身の回りや家族や子供の方のケア・観察の仕方を勉強していこうかと思います。 初めての方は昼の部から参加することをお勧めします。

着物

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着物たくさん頂きました。 着物用の雨合羽を作る生地もあります。 撥水加工済みですよ。 帯用の反物もあります。   写真じゃなかなか伝わりづらいですね 。 ↑ここら辺は渋選。年配の方に似合いそうです。 ウール・混紡・木綿 左上  派手で奇抜な模様が多いので若い人好みかな?ウール多し。 右上  絣と紬なので稽古着に向くのはこちら。道行コート羽織のセットもあります。 着物を着てくれる方にお譲り致します。欲しい方は楽縁堂までどうぞ。

躙り

”躙り”という動作がある。にじりと読む。 騎座になり手は拳、親指の第一関節を曲げて畳に向け爪を隠す。 そのまま腰を使い、前にすすっ、すすっと進んでいく。 茶室のはいり方と言えば分かる人もいるかもしれない。 茶室の入口の事を躙り口と言い、身を縮めて先ほどの動作ですすっと入って亭主を待つ。 茶道をやっている人はもっと詳しくわかっていることでしょう。 この¨にじり¨という動作は整体の稽古でも行うので、そちらで学ぶ事ができた。 葬式や静かにする場所で、にじりで動いている人をたまに見かける。場に対する配慮を感じ取れる動き方だ。 椅子生活や和室がなくなった現代においては、茶道でも習わないとなかなか見かけることはなくなってしまったんじゃないだろうか? 最初に見たとき懐かしいと感じたことを覚えている。 何故、初めて見たのに懐かしいと感じたのかわからない。 ¨にじり¨は各流派でもやり方が違う。 大きく分けると武士の茶道と町民の茶道で所作がまったく違う。 先ほどのやり方は武家の所作であるらしい。 人によっては堅苦しく感じる武家より簡単な町民派がいいと言う人もいるが断然、武家茶道の方が面白い。 先ほどの親指を隠す動作は、武士は刀を抜くとき、帯刀しているときは親指は常に鯉口を切っている。つまり左手の親指を束に立て、いつでも右手が刀を抜ける様に準備をしているのだ。 その親指を曲げ畳に向ける事で戦闘の意思はないと身体で意思表示しているのが、先ほどの武家にじりの意味なのだと、ある茶道の先生に伺ったことがある。 話は尚も続いた。 茶の湯は大衆、町民から生まれた文化だ。それがどうして武士階級まで行き届いたのだろうか?そこでの人と人との心のやり方に感銘を受けたに違いない。 そこで生まれた佳きものを共有しようと、武家の正式な座り型が胡座から正座になり、刀をおいて、その空間での移動手段が親指を隠す”にじり”になったのだと説明してくださった。 面白いと思ったのはその時間、空間での所作、礼儀作法、形式を生み出したのが亭主側だけでなく、客側もまた関わっていると言うことである。戦闘を生業とする侍集団達は、利休に代表される茶人達のもてなしに何を見たのだろうか? 何を感じ取り、その所作、形式を

正しさよりも楽しさ

以前、ある一組の夫婦に一本の筆を持ってもらい、一緒に字を書いてもらうという稽古をしてもらった。 男性はおもしろがっていたが、女性の方は書き順が違って混乱した。とても疲れたという感想をもらった。 相手と同調して動く、一緒に動く心地よさを経験してもらいたくて、こんな稽古をしてみたのだが、 こちらの思惑は見事にはずれてしまった。 しかし、こんな光景は日常にごろごろと転がっている。 だからこそ、この心地よさを知ってもらいたく共調関係の面白さを伝えたくてやっているようなものだ。 書き順といえば、僕が小学生の時に漢字ドリルの宿題をやっていた。 その時に、横で見ていた母親に書き順が違うとこっぴどく叱られ泣きじゃくった思い出がある。 先生に習った通りに、漢字ドリルに書いてある通りに書いているのに、何故僕は怒られるのだろうか?と思ったが、母親も先生に習いその当時の漢字ドリルの通りに書いていたのである。 つまり母親の時代の書き順と僕の時代の書き順が違っていたのである。 それが判明すると母親は謝ってくれた。 後日、何故時代によって書き順が違うのか聞いて回ったが誰もそんなことを知りもしないし、興味もない、だんだんと僕の中でも関心が薄れていった。 だが、それが「正しさ」や「真実」と言うものに疑問もった最初のきっかけかもしれない。 時代によって変わる正しさや真実や常識といったものは数多にある。自分が納得いくまで考え抜く、やり続ける。安易に周りに妥協しない。 そのやり方が自分のリアリティを形成していく。 誰かと共有できればなおいい。 文字や文書、句読点の打ち方の是正よりも、ただ、単純に読めればいい。 だれかに伝わればいい、それを基準に考えている。 そんなある時代の空気やある種のイデオロギーに振り回され感情的になり、これこそが正義だと善人面して肩を張って歩く趣向は僕には到底できそうもない。 外国歩いていてもそうだ。 結局誰かと話が通じるときは、文法にかなった喋り方をしている時ではない。 気持ちが前面に出た喋り方の時だ。 それを実体験して学んできた。 正しいやり方なんてないんじゃないだろうか? 書き順や句読点、息継ぎの仕方は身体の運用の違い、それこそ身体が個性でいいじゃないか ? ただ、楽しいやり方はあると思っている。 その追及

やっと九月だ

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ながい八月だったなー。 第一関門やっとこさクリアしたら第10関門まあったかのような感じ。 自分の手に余るようなこともいっぱいありましたな。もちろん全力でやりましたが。 色々片付いてひと段落。 やっと憑き物が落ちた感じさえもある。 息子はひと夏の恋を経験? 日に日に生意気になってくる。 親父を下僕かなんかと勘違いしてんじゃないだろうか? だいぶブログ内の記事も整理できたし、整体コラム欄はしばらく落ち着きそう。 というかしばらく書きたくないような気もする。自分の言葉に振り回されているのは少々疲れる。(でもリクエストあればいつでも書きますので。)ほんとはもう少し人の内面を掘り下げたことを書いてみたいがそれにはもっと経験が必要なんだよなー。 しかし、こんなブログ会員さん以外いったい誰が読んでんだろう? 様々な気づきはあれど、一番は人は追い込まれると本性を発揮すること、自分でも知らない力を発揮することと、 その働きもどこかから、あるいは誰かから伝わってくるという事だった。 誰かが、怒りに任せて行動すると運に見放されると言ってたけどそれも身に覚えあり。 周りを見渡してもたくさんいらっしゃる。まあ、そういう時は自分の事だけに囚われがちですが、みていてとても見苦しいもんです(笑)。 外から見てもそう見えることでしょう。(笑) ただ、それもどこかから伝わってくるし、伝えているもんだ。不安や怒りや何かにとらわれての行動は何も生みはしない。停滞していることに気づくというのはなかなか認められないものなのだよなー。 まったく毎日が勉強ですな。 真っ白になって自分の中のありったけをだそうともがけばもがくほど、確かに力は沸いてくるかのように感じるが、その力自体が 先達者たちからの影響を伴って出てくるというか?どこかから伝わってくる。 例えるならリレーのような感じ。 前の走者が力を振り絞って走りきるから、その力を乗せたまま次の走者に託していくような 自分はその中間者、過程の中をただひたすら力を出し切って走っているような、前の走者には戻れず、次の走者にもなれない。自分の仕事をするしかない。て手渡されたバトンを次に託す。そんな感じ。 そうだ、連歌でも例えられる。 前の人が5,7,5を歌にするから、それを受