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西岡恭蔵&KURO追悼コンサート「Glory Hallelujah」

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きずな

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先日、知り合いから亀渕 友香さんが光の世界に旅立たれたと聞く。 晩年、父と仲良くしていただいて伊豆の別荘に招待してくれたことや、お忍びで金沢に来られたこと、忍野dead fesでの余計な力の抜けたステージや楽屋裏での思い出が蘇る。 整体もさせていただいたことがあったな。なにもできなかったが。 「私は患者のプロよ」っていって面食らったことがありました。 沢山の楽しい思い出をありがとうございます とてもパワフルなbig mamaでした。 もうあの歌声は聞けないんだなあ。 寂しいですね。 心からご冥福をお祈りいたします。 「みちしるべ」を聞きながら

あいさつ

昼休みに近所を散策しながら支払いなどの事務業務や買い物をしていると、ちょうど下校ち途中の小学生たちとすれ違う。 最近の小学生はすれ違うと挨拶をしてくれる。 最初はまさか自分に挨拶してくれるなんて思ってもいないので素通りしようとすると、 すれ違いざまにしっかりと顔をみながら「こんにちは」と挨拶してくれた。 「はい、こんにちは」と返すとにっこりと笑顔。 しっかりとした男の子だった。 それから数分ほど歩いて公園の横を通った時も、二人連れの女子小学生がやはり 「こんにちは」とあいさつしてくれる。 知らない人同士でもあいさつし合うのは気持ちがいい。 しかし、知らない人にあいさつするなんてどうしたんだろう? 学校でそう教えられているんだろうか? 昔、僕が小学生の時は知らない人にはついていってはいけないと教えられ 少し時代が進むと、知らない人には関わるな、と教えられたと聞くが、 変ったんだろうか? だとしたらその方がいい。 あいさつは気を通わせる基本だ。 知らない人には声をかけないで判断するより、声をかけて返ってこなかったら変な人だと判断すればいい。都会や人の多いところではそれもいいかも知れないが、田舎や人の少ないところでは挨拶をして返ってくるくらいの関係がいい。 基本だと思う。 子供の感受性を育てるにはそっちの方がいいだろう。 しかし、現代はなんだか変な犯罪も増えているので教育も極端に変わっていくのだろう。 変な犯罪には巻き込まれてほしくはないが、自分で変な事を判断できるように持ってかなければならない。 この近所では子供たちがとても元気だ。 あいさつもちゃんと返してくれる。 うちの子たちにもあいさつは大事なんだ、と教えることにしよう。

あたわりもの

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"あたわる"とは富山の方言で運命付けられたもの、与えられたものとある。 私見だが、これは元々は仏教かそれ以前から生まれた言葉なんじゃないかと思っている。 富山を含め北陸には浄土真宗門戸が多く、それ以前の白山信仰も手伝って方言だと思って普通に日常会話で使われている言葉が、実は仏教用語から来ている事は少なからずあるため、"あたわる"もまたそんな気がする。 誰か真実を知っている方にはご教授願いたい。 ともかく神仏の領域からやってくるモノ・コトを縁や運と言い表し、そこから得られる自然界の恩恵を"あたわる"と感謝を含めて自然界や自分の宿業を超えてやってくる何かに祈りを捧げているような印象を感じるのだ。 別に僕は信心深い訳でもなんでもない。どちらかといえば思慮の浅い不埒者であるが先祖からあたわったモノ・コトや、ご縁や運の良さには感謝せずにはいられない。 子どもが来てくれた事もそうだし、整体や武術に出会えた事もきっとそうだろう。たくさんのモノだって譲り受けている。余りに色々なモノを貰うのでホームレスかリサイクルショップでも開けてしまうんじゃないか?と思えるほどだ。 嫁さんにはこれ要らないんじゃないの?と時々突っ込まれて逆上する事がしばしばある。 どうも物持ちがいいのは親譲りらしい。母親は特に物持ちがよく、一見がらくたにしか見えないモノまで大事に保有している。 というのもこの間、京都出張の際にいつも使っている通勤カバンのファスナーが壊れてしまった。 結構お気に入りだったので修理しようかと見積り出してもらったら二万円近くかかるらしく、それなら新しく買い直す他ないと泣く泣く断念した。 Amazonでも覗いて見ようと実家でスマホをいじくり3つくらいに候補を絞り、コレにしようかとポチろうとした瞬間、母親が現れて「あ、そういえば、いいカバンあるよ」と二階でゴソゴソやっていたら革製のトートバックを持って来た。 なんでも僕の祖父が通勤に使っていたものらしく、母親も高校生の時に通学カバンとして使っていたらしい。今から五十年も前の話なので僕より年上の年代物。 三世代に渡って使われていく事になる代物。 なんというかひとめぼれ。 外見もいい具合

表と裏

京都三日間を終え、いつもの友人宅で一服ごちそうになる機会があった。訪ねるのは半年ぶりだがいつも行くとコーヒーを煎れてくれる。 それが今回は抹茶に変わったわけだ。 自己流だが旨い。器は二つあってこちらは馴染むがこちらは馴染まない、ともう一つの茶碗を出してくる。触れてみるとなるほど、先ほどの器とは集注が違う。 一つ目が表の身体なら二つ目は裏の身体。 見えてくる風景が違う。 二つ目でたてるなら、手順を逆にした方がいいような気がする事を伝え、右なら左で。上から下なら下から上へ茶筅を振る ようにする。 そして試して見ようと第二ラウンド。後ろ姿を見るとかたがっているので、腰を整え、それに手足がつくようにしながら茶筅を振ってもらう。 いつもと違う感じらしくたてやすくなっったらしい。。 たてた抹茶を皆で試飲。 結構なお手前。 たてた本人が一番びっくりした様子。 こちらも器によって表と裏の身体が鮮明に見えたのが面白かった。こういう事から表千家、裏千家との違いがあるんだろうか?なんだか面白くなって来た。他の流派はどうなんだろうか? 家に帰りそういえば母親は宗和流のお茶を習っていたな、と聞いてみると、茶碗には夏茶碗、冬茶碗があることを教えてくれた。器の形の違いで使い分けるらしいが、 茶人たちは身体の見え方も含めて夏用、冬用と使い分けていたのかも知れないな、 私が感覚したのはコレだったのかも知れないな、と妙に納得。 勿論、それが本当かはわからない。 京都三日間の最後に稽古の種を頂きました。 さて、これをどのようにして咲かせようか?

十月・十一月の予定

十 月・十一月の 予定についてお知らせします。 この間聞いた話によると、イタリア上空には放射線の強い領空があるそうで、ヨーロッパ方面に向かう飛行機会社の間ではそれは常識らしく気を付けるそうです。その理屈から行くとイタリア人は毎日強い放射線にさらされているわけですが、がんの発症率は少ない。 対して日本人にはがんが多い。なぜだろうなんてことを話していました。 僕の随分と勝手なイタリア人のイメージは母親を大事にしていて女の人好き、どちらかと言えば自分の欲求に素直なのかなと。 まあ、色々な事を考えれますね。 その話と関係はないかもしれませんが、整体の受け方が上手。整えやすい人たちというのがいます。たぶん、その人たちは自分の欲求に素直な生き方をされてるんじゃないかと思うわけです。病気のことなんか考えていない。 その時その時自分にピッタリな感覚を追い求めている。 幸せな生き方と言えそうです。 がんや病気にならないようにしよう。だから身体に気を付けよう。というのも悪くはないでしょうが、たぶんそれと先ほどの幸せな生き方というのは全く違うものなんでしょうね。 後者の考え方は幸せになろう、というより不幸にならないようにしようとして生きている。だから最初の出発点がこうなろう、ああなろうというより、ああならないようにしよう。こうならないようにしょうという印象が先に形成されてしまう。 これを身体や育児に置き換えるとああしたい、こうしたいという欲求がその子の力や身体を作っていく。欲求が満たされるという事を通して安心感や幸福、信頼感などを獲得していく。 その欲求をどう伝えればいいかという事を通して表現が積み重なり形成されていく。 喜びをどうすればもっと共有していけれるか、そのために何をするかという事が基本になっていくので災難や困難があってもそういう時期ととらえることしてできそうです。 人間はそういった人同士の交流の場でお互いの生命力を高め合って蓄えてきた。 その立ち上がった場から様々な知識や知恵、型が生まれ分かち合ってきた。 と理屈で言えばこうですが、万事この調子ではもちろん行きません。 だからこのことを細胞レベルにまで昇華させたい、体験の積み重ねから事実にしたい。 その事実をもっといろいろな人と共有したい。 というのがこの会の稽古の理