瞑想と内観

瞑想と内観。

両方やってきてみて思う事は、全然別物だという感想だ。
最初はどうも混同して理解していたような気がする。

以前、ヨガ・セラピストをしている何名かの人と身体の話、人間の可能性について話をしていた時がある。
彼・彼女らも身体関係の仕事をしているのでそういう話になった。
彼・彼女らは首が痛い等、腰痛などを訴えて僕のところに来ていたのだが、普段どういう身体の稽古をしているかで話に花が咲いた。

その人たちも瞑想や内観と言ったことをやるらしく話を伺っていると、
「毎日、内観してるけど腰が痛いから、そこだけ外してやっている」ようなことをおっしゃる。
ふと疑問に思い、「ずいぶん僕らが内観と言ってることと違うなあ」、とも自分が腰痛を内観して良くなった経験とは違うなとも思ったことがある。

そういったことから、自分の経験しているものと彼・彼女らのやっていることのどこが違うのかと考えるようになった。年季を重ねるにつれてその違いはどんどん明白になっていった。

両方とも自分に集注する観察する、という事は共通しているが、出来事としてまったく違う。方向性が違う。
瞑想は自分を客観化する。

明晰、明瞭にしていく事を喜びとする。
自分が集注している事を一旦、括弧にいれる。そしてそれを解析、分析、識別する事に長けている。

つまりは科学の世界だ。

禅は自分を客観化する事を目的とするが、主観しかない状況の時には、客観がセットで働くだろうし、例えば戦国時代、毎日各地で紛争が起き、食べるものもない、政治は腐敗し、権力者は富を肥やすといった苦しい状況から脱却するために客観化、俯瞰視が生まれるのは当然の生活の知恵と言えそうだ。

もちろん、それだけじゃないだろうが。これだけ現代は見えないものを数値化、計量化し、それを採用している科学文明は、道元さんの時代から見れば、皆、客観視に達観している、その代わり自分の感じている世界、経験の世界がおざなりになる危険性がある。そういうことをおっしゃっている方もいたがなるほどと頷けてしまう。

一旦、括弧にいれるというのは自分に起こっている出来事、感情、情感、情緒、思考から離れて見るという事となる。そうやって自分を構造を理解しようとする。
しかし、それだけでは、やはりどこまで行っても理屈と合理思考の世界が展開されていく。下手をすれば当事者性が失われていく。

その行き着く先は人工知能の世界ともとれるのに頷ける。

その方向性は一人の世界を理解するのには長けているかもしれないが、他者との世界を理解するには少々役不足のような気がする。

将棋の羽生名人はタイトル獲得戦・防衛戦の時にいつも長い間沈黙する時がある。
何十分の沈黙の後、打った一手が決め手になり、いつも勝つ。

それを見たインタビュアーが
「羽生さんは頭の中で何千手、何万手先までシュミレーションされているのですか?」
と尋ねるシーンがある。
彼の答えは我々の予想を裏切って、
「いやー、盤上がすっきりして見えるまで集注していたら、そこしか見えませんでした。そこに打ったら勝っちゃいました。」
なんて答えが返ってきたりする。

そんな彼の脳波を調べて瞑想しているときと同じ状態が展開されていますと、ある科学者はいっていたが、彼の言葉から推測されるように彼は将棋中、まったく認識・分析も識別も行っていないように聞こえる。
一般的に瞑想と言われる集注状態とは、質の異なる世界にはいっているのではないかと思う。
分析や識別といったような世界を通り越して、いわゆる”無”に入っているのかもしれない。人の集注状態にはそういった段階があるのだろうと思う。

では、内観はどうかと言えば、僕はそれを語るのに充分な言葉を持ち合わせていない。
まだまだ経験が足りないともいえるし、「内観」は野口家の生み出したお家芸なので、そちらを参考にされたい。
内観は行気から生まれたとされるが行気とは読んで字のごとく、愉気を自分に対して行う行為の事である。それに無感情ではいけない。僕に語れるのはこれくらいだ。

ただ総じていえば、瞑想は点と点を理解するに長けているが(それだけでもすごいことだが)、その点と点を結ぶ働きに触れることを内観と言っているのではないかと思う。

そして、すごいところは経験を共有できるところだと思う。

他者を理解するのには表面的な態度や、安易な尊重や同情はかえって軋轢を生む。
その人の身になって考えることがいかに困難かを思い知らされる。
結局、その人の経験を外から理解していては、安易な同情しか生まないことを幾たび思い知らされるが、経験は固有のものでなく共有することによって、他者や自分との間に必要なのは「理解」なのではなく同情ではなく同調であり、それすらを超えて「ある働き」に気づかされていく事ではなかろうか?と思う。

「ある働き」とは、いわずもがな生存の働き。
生命力の事である。

生命力の共有、其れこそが人が確立してきた、他者間とのコミュニケーション能力であると信じている。




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