里山体験

最近、息子は里山デビュー。

↑漆の葉っぱらしく、秋になると一番に色付くそうな。


保育園のイベント事の一つで、知詰め込み型の保育~体験型の保育へ、ということらしいがインストラクターさんのお話しを聞いていてシュタイナーまで飛び出して来るとは思わなかった。

僕はシュタイナーがなんなのかはまるで知らないし、なんとなく意識高い系の人達の間で聞いたくらいの理解でしかないが、そこから野口整体までたどり着く人達もいた。
その話を聞いて「うん、うん」うなずくお母さん方に共感し、参加者としての自分と、山で遊ぶ子ども達に、昔の自分を重ねての経験者としての目線を、二重に併せ持つ不思議な時間となったが、時代は進んだのね、と実感。


この自然里山体験から稽古場でやっていることまで繋がる余地は充分にあり得るだろう。
子どもの身体をどう育てていくか?というところまでいけばいいわけだ。

僕らが子どもの頃は無農薬野菜を食べてるとか、里山で火おこしやカヌー遊び、竹細工にタケノコ掘りや農作業なんて言っても、親サイドは毎回たくさんの参加者が関わってはいたものの、小学校主体の地域社会では誰の理解も得られなかったように思う。変わったひとに見られるか、玄米食べてる貧乏人位の理解しかなかったのだ。


ところで僕が子どもの頃、遊び回っていた山々で川遊びや田植え、畑、桑の実や木苺を食べていた柳原が今や、猪対策で電気柵が張り巡らされ、子ども達の遊べる環境ではなくなったことに悲しい気持ちになっていたが、逆にこういった自然レジャー体験は増えていくだろう。

そういった人達がそこでの生活や文化を考え、守って行ければいいわけだが、ただのハイ・コンテキストなステータスを経験しました、で終わってほしくはない。一回消化型のエンターテイメントで終わってはナチュラル・フリー・リラックスの文脈に回収されるだけで、自然はいい、で終わるだろう。

それはなんとも面白くないのだ。

しかし、長男はそんな事をよそによっぽど楽しかったらしく、毎日の様に里山に行きたいというので樫見の叔父の家に連れていくことにした。
そこは山の奥の手。
半自給自足でセルフビルドしたドーム型の家がある。


猫も犬も鶏もたくさんいるので、長男も次男も大興奮。



そのあとは水遊びにミミズを取ってきて鶏に餌をやり、その間に卵を取ってきてお土産に。


木のブランコに乗って遊ぶ。


それから毎日の様に山にいくと言ってきかない。泊まりたいと言う。
叔父のところにはこうやって来る子ども達がいっぱいいるらしく、鶏小屋の世話や田植えでの泥んこ遊び等してお泊まりをしてたくましく成長していくらしい。子ども達は楽しいからまたくる。危険な目に合うこともある。それでもまたくる。その子どもの求引力に引かれて親もまたくる。

最初は親が色々な思想に被れて山に連れていく訳だが、そこで経験する事は現実だし、生活だし、変化だ。

それらを経験して親も子も変わっていくわけだ。
お前もそうだったし、オレもそうだっただろうと叔父が言っていた。

確かにそうだったな。

自然は肌が知っている。
どんな思想も無力化するところだった。
頭だけの理解に嘘臭さや物足りなさを感じてしまうのは、こういった環境で育ち、身体を育てて来てもらったからだったのだろう。
いい経験をたくさんさせてもらって来ての現在があったのだなと思う日々であった。

追記

叔父が俺が死んだらこの家をくれてやる。稽古場にでも道場にでも好きなようにしたらいい、と言ってくれた。

ありがたいことだか、少し山の奥の手過ぎる。

使いようによっては面白い場所にはなりそうだが。

いいアイデアが降ってくることに期待しよう。









コメント

このブログの人気の投稿

あたわりもの

before after vol.7 蜂の巣とコーキング

新年一月・二月の予定