先生

「先生」は偉大である。
先生という言葉には権威がある。

その権威が信頼関係を作っている部分があるが、世間一般で「先生」を名乗る人たちはどうか?

権威だけあって能力に見合っていない人もいるだろう。
そういう事がこの言葉のイメージを悪くしている。

本来、先生は自分で名乗るものではなく、人に言われてなるものだろうと思う。そこに込められた敬意と尊敬が関係性や役割をあたわり作られていくわけだ。

だから、私も「先生」を名乗る、そして呼ばれる職種である以上、人に言われても恥ずかしくない様にありたいと最低限心がけているが、呼ばれる事にも呼ばれない事にも違和感を感じる時がある。

医療や教育に関わる人達には「~~先生」と呼んでもらうことで、相手に対しての敬意と尊敬を込め関係性を円滑にしている。その結果として治療や教育がスムーズに行われる事が多々ある。権威がこのように使われれば乱用されることはないし、違和感もない。

子どもの整体指導でも親がこちらを信頼していなくては、子どもにも信頼されない。

親の態度をみて子どもは真似をする。~~さんと呼ぶのと~~先生と呼ばれるのでは子どもの受け取りかたは随分と違う様だ。

基本、僕のところで整体を勉強してる人達や、整体指導に来られている人達には先生と呼んでほしい等と強制はしないが、自分が学ぶ人への配慮や身体を任す、任される関係性への配慮は最低限するべきだと礼儀を学んでもらっているし、自分もそうしてきた。

こちらも身体を任してくれる相手に対しては礼でもって始め、礼でもって終わる様にしている。

どんなジャンルも礼は基本である。

先生や師匠等と呼ばれると少しこ恥ずかしいしガラでもないが、自分が弟子や生徒の立場である時、教えてもらっている人に「~~さん」や呼び捨てにはしないだろう。

自分が学んでいる人に対して「先生」と呼べない関係性はどうかと思うので、それが改まるようなら、教えることや整えるに対して本気になるようにしている。私が弟子や生徒の立場から物事を学ぶときはいつもそうしていた。

かといって形だけ「先生」と呼んでくる人に対してもどうかと思うので、同じように対処している。

どちらにしても色々教えても、使いこなせないか、「いいとこ取り」の浅い理解で終わるのは明白なので、相手がこちらをみる分、こちらも相手を観ることとなる。

弟子も師匠を選ぶが、師匠も弟子を選ぶのだ。これは整体でも沖縄県での武術修行時代にも当てはまる。

沖縄での古流空手の指導者達は本土から来た来た人達に対しては、勝手に改変するので、本当の事を教えず、お客さん扱いして帰していたそうだ。

合気道創始者、故植芝盛平先生にもそういった逸話があったと聞く。

本当の事を学ぶには信頼関係が先だってあり、それを結ぶために礼儀作法が機能する。

そうやって結ばれた関係があり、物事の学習伝達が可能になる。

現代はそういう門弟制度は機能していないに等しいし、学習が所謂ハウツー物になっているので、果たしてそれでいいのか疑問ではある。

しかし、どんな酷い態度の人間でも段々と整ってくるにつれて、態度が改まり、礼を以て関わる様になるので不思議と面白い。意識もだいぶ変わるようだ。

整うという事はそういう事なのだろう。

言葉で教えたことよりも、自分の経験で学んだ事がその人を変えていくのだ。

だから、基本あまり教えないようにして、できるだけ多く経験して勝手に学んでもらえるようにしている。

一方的に答えを突きつける事よりも、問題提起して一緒に考えていくようにしている。

先生や指導者の役割はそういう事、それ以上それ以下でもないんだろうと思っている。

先生という言葉には確かに権威が付随する。時としてその権威は「私」に付随した権威だと勘違いしてしまう事がたくさんある。

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