オカルト話は興味がない
なんだかおかしな日が続くって言うのがある。
とあるお店で久し振りにオーナーさんと話し込む。話はどんどん転回して、物販の話から客層のはなし、共通の知人の話。
「うちにはこんな客層が来るのですよ~」
という話から、なぜか守護霊や憑き物の類いの話へ。
という話から、なぜか守護霊や憑き物の類いの話へ。
こういった話は慣れっこ。
「え~、見える人なんですか!?」と問われれば、
「なんにも見えませんよ。」と答え。
「整体は基本、見えないものを相手にしてるんですよ、」
と話を誤魔化すのが僕の定石。
基本的に不思議大好き不思議ちゃんは疲れるので相手にしない。が
基本的に不思議大好き不思議ちゃんは疲れるので相手にしない。が
、憑いた憑かれた、見えた見ないの話もまた興味がない。
生き霊だの前世だのUFOだの宇宙人・地底人だの、空想は生々しい現実とセットなので別に持つのは悪くはないが、このての話もまた話し手によって楽しめたりイラついたりするから不思議だ。
というか、整体稽古者はこの不思議ちゃんが多いのか?
まあ、僕もすでに片足突っ込んでるようなものだ。
人の事を言えなかったな。
この日もこういった感じで話を合わせる。
楽しめそうだったからだ。
(うちに来る困ったちゃんは色々なところでしょうもない霊を連れてくる。
毎回無自覚にそれらを引き連れて店に入って来ちゃうから疲れる。
どうしたらいいものか?見たいな事を相談された。)
(俺に言われてもな…一体、俺をなんだと思ってんだろう?。
っていうか、お客さん放っといてこんな怪しい話をしてて大丈夫かね?
っていうか、お客さん放っといてこんな怪しい話をしてて大丈夫かね?
ってなことを思いながら話は進む。)
(霊に取りつかれやすい体質なんかないだろう。
どうだっていいはなしでもある。
その人は、ただ八方美人で無防備なだけだ。
その人は、ただ八方美人で無防備なだけだ。
霊に対してそうなら、人間の世界でもそうに決まっている。
自分の意見なんかなく、ただ人の言うことに乗っかってるだけだと思う。
自分の意見なんかなく、ただ人の言うことに乗っかってるだけだと思う。
霊に対しても愛想振りまいてんだ、と答えた。)
それがもの凄く腑に落ちたらしい。
スッキリした顔に変わったので、店を後にした。
それから遅い夕食をと入った友人の店にでもまた霊の話。
(また?そんな霊感高かったっけ!?
なんか今日はそんな日なのか?やたらとこんな話が続く。
金沢ってこんな人多いの?自称シャーマンばかり?)
頭は疑問符でいっぱい。
その人は何かを感じとり、絶対的な恐怖に落ちいるらしい。だからそういう類いを避けて通る。退ける。知り合いの方に祓ってもらう。
彼はビビりだ。霊にビビる人は人間にもビビりだろう。
そりゃ相手が日本最大の怨霊、崇徳院や菅原道真、近代入ってからは西郷隆盛くらいだったらこちらもびびる。
(わからない人は歴史を勉強してください。)でもそんな大物クラスがここらへんにいると思えない。
どうもこんな話を聞くと、目の前にちっちゃな羽虫がいたとして、彼には大雀蜂くらいに見えてるんじゃないかと思ってしまう。
霊的なものにいつもびくびくしているから、引っ張って来るだけじゃなかろうか?いや、人間はそもそもがビビりなんじゃないか?
沖縄でもそんな人いっぱい見た事を思い出した。
いわゆる霊的世界に対しての過敏傾向。
常にそっちの世界に感受性を向けているから、感じなくていいものまで感じとったつもりになって頭で不安を作り上げてしまう。
そういう人達を神人(ノロやユタ)と崇めて守る共同体の文化が沖縄県にはあるからいいが、日本では東北のイタコくらい、そういう人達の過敏傾向に漬け込んで救済しようとする団体もあるから始末に悪い。
まあ、日本にはそういった悪しき宗教の時代があるのですよ。
まあ、日本にはそういった悪しき宗教の時代があるのですよ。
過敏傾向は変える事もできるが、不安はなくならない。目に見えない、だけど感じる存在に悩まされてきた。
それらを遠ざけようと、色々してきた結果が現在かもしれない。
自分を苦しめる何か。
自分をおとしめる何か。
それらのせいで今の自分はおかしい。
不幸だ、不運だとどんどん作り上げていく。
自分の不幸を棚にあげて霊のせいにしていくのだ。
自分の不運は社会のせいだと、ずっと一方をたて、一方を排してきたのだ。
そこに救済を求めきた。早い話がずっと僕らは悪魔払いをしてきたのだ。
近代に入ってもそうなのだ。
異常があるから正常にならない。
邪念があるから悟れない。
霊にとりつかれたから人生上手くいかない。
全部同じ類いだ。
もうこのての考え方は終わりにした方がいい。
もうこのての考え方は終わりにした方がいい。
だが、その考え方を採用しなかった文化が過去にある。能楽の複式夢幻能で語られる世界はこれとはまったく違う。一方をたて、一方を排除の世界ではない。
主人公の多くはあやかし、つまりは霊、怨霊だ。物語の多くは住居の定まらない。全国を行客するシテ僧侶が彼らに出合い、彼らの物語を聞き入れ対話し、弔うところで話が終わる。
ここに能楽の凄さ、霊的世界とどう関わっているかという関係性の技術がある。
シテは霊を弔う為に無心で舞うのだ。
僧もまた鎮める為に無心で唱えるのだ。
その世界に八方美人でもない。
微々って退けるわけでもない。
ただ寄り添って対話し、鎮め弔うのだ。
しかもそれを僧侶が行っている。
先ほどの彼は能楽を勉強してはどうだろう。
きっと何か一つ道が開けるだろう。
ところで近代の僧侶はこれらをどう思っているのだろう。
科学と仏教は相性がいいとし、霊魂はない、マインドフルネスだーとか、グレースだー、とか仏教AIだとか色々出してきて解釈している外国の仏教修道者はどう思うだろう。
全てを意識的に露にし、合理的に展開されてきた修業を修業と呼べるのだろうか?
ウッドストックのヨガ行者見たいに呼吸法でハイになりたいだけではないのか?そんな疑問がつきまとう。
行き場のないさ迷う怨念を弔う僧侶達の数多くの物語を、彼ら報われなかった死者の世界を、科学的でもなく、経典にも載っていない、そんな世界を
鎌倉新仏教の先達達はどう思い扱って来たのだろうか?
鎌倉新仏教の先達達はどう思い扱って来たのだろうか?
そこら辺に詳しい人がいるのならお話を伺ってみたいものだ。
オカルト好きな人、多いですね。海外でも沢山居会いました。見える、見えない、憑かれる等、特別な自分の語りを聞かされているようで..一種の自己暗示なのかなとも思いました。
返信削除能楽や妖怪とかの話は面白いんだけどね。オカルトになっちゃうとちょっとね。
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