稽古場の可能性考 その1

京都三日間を終えて帰ってきた。
回楽しいことばかりだが、今回も体調不良もなんのその気づけばあっという間に時は過ぎる。

しかし稽古場とは不思議な場所だな、とつくづく思う。
場所によって雰囲気が全然違う。
今まで行ったことがあるのは本部道場二か所と京都研修所、西成と等持院、白山稽古会に、今回は西陣稽古場にお邪魔することができた。関西方面が圧倒的に多い。

緩いところもあれば開放的な場所もあるが、通底しているのはその場にいると段々と鎮まってくる集注観。
小声でしゃべるのがちょうどいいような、それ以上のものは場の雰囲気を壊してしまう、というか壊したくない。とても清浄で落ち着くところ。それを出発点にガラリと表情を変え一気に賑やかになったりもする。
そのことを誰が教えるでもなく場が教えてくれるというか、自然とそうなってくる。

そこでの作法を学ばなければ入れない。そんなようなところか。
まあ、本来神社・仏閣もそういうものだろう。
そこでの空気を乱すことがなければあとはお構いなし。
そんな懐の深さを感じさせてくれる場所でもある。


稽古場には色々な方が出入りする。老若男女年齢もバラバラ。
様々な職業人の出会いの場でもあったりする。

皆が内側に集中を向けた稽古の合間合間の、休憩時間にくるりと様相を変える。
ある時は皆で談笑を楽しむサロンだったり、そこに通う陶芸家の展示会だったり、それぞれの活動の発信の場でもあり、情報交換も盛んに行われる。
商店街にもなったりもする。下駄屋がいたり、稽古着になる着物屋がいたり、竹細工屋がいたり、袴の仕立て屋、ホームメイドのジャムやクッキー屋さんがいたりと何ともにぎやかしい。

整体・内観を稽古する仲間が日常品を持ち寄り、それらが行きかう。
市場がたつ。そして、それぞれの手作りの商品や作品には整体の身体技法や思想が生かされている。

ここで行きかう商品のやり取りは一般的な経済思想を根底に置いたものとは全く違うように思える。もっと原始的というか商いや交換経済の原型があるように思える。人間に商品価値を付加した経済思想とは真逆のような空気感。
皆、和気あいあいとやっている。当然空気が動いている。

こういう風景を見ていると、経済が豊かさを生むのではなく、文化という共有されたものが産業を生み、豊かさを伴っていくのだ、そしてそれは共有された豊かさに変わるのだと確信する。こういった文脈で歴史などを見てみると面白い。

古くは千利休が始めた茶の湯が、もっとその場を良くしようと多くの人たちが集まり、
数寄屋造りや様々な茶道具を生み、それを作り出す職人たちが生まれ、それらの行いが産業を作り出し文化形成されていった。世阿弥の能もそうだろうし、ロックやジャズやブルースなどの音楽市場も最初はそうだったろう。
文化とは想像の源なのだ。それを原型に様々な物が産み出されていく。近代人に必要なのは誰かが舵をとることだったり、主義主張の是非などではなく、こういった生存の原形の確認ではないか?と思わされる。
願わくば国家というものもこの文化形成されたものであってほしい。


これから整体という共有された文化が何を生み出していくのだろうか?
すくなくとも仲間内で生きていくことは可能だろう。
そんな共同体になりつつある予感がある

そんな場である稽古場と稽古人がもっと増えればいい。
来たれ、稽古人!!!








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