感受性が働いている

相当な音楽好きな先輩にお薦めの音楽を借りた。
以前聴いた事のあるCDだった。

何回も聴いた事のある音楽、展開が頭の中で想像がつく。懐かしい。
しかし再生ボタンを押して流れて来た音楽はまるで初めて聴いたかのような感覚に陥る。
何故?

何回も聴いたはず。まるで展開が読めない。一音一音の間隔が広い、こんな深みがある音だったろうか?思考が追いつかず音の一つ一つが身体に澄み渡っていく。しばらく余韻に浸っていた。

それからしばらくたってオサレーなカフェでお茶をしていた。いわゆる女子空間であり、オジサンな僕には少し敷居が高い。少したって店内で流れてきたのは先ほどの曲。
この前味わった感動はない。


展開の読めるいつものあの曲。気づけばメロディを追っかけていた。リズムとメロディは幾つもの点と流線形に置き換えられる。

何故だろう?同一のものなのになぜこんなにも聞き応えが変わるのか?
場所が違えば人が違えば印象も感受することもまるで違う。


いつも不思議に思っていた。

この人といればどんな曲も集注して聞ける。ファミレスで食事したって楽しい。
この人といると集注が変わる。この人と酒を飲むとまるで酔わない。この人といると嫌いなタバコの煙も何故か心地よい香りに変わる。居心地のよい空間とそうではない空間。
誰もがそんな経験があるだろう。


人は圧倒的に集注する存在であるという。
どんな行為や行動もそれに先行して観念を形成している。


それはその人の心の問題ではない。観念を形成している感受性の働きだったのだ。
不味いものを旨いと感じるのも、毒を薬に変えるのも感受性の働きである。
世界は完全で私は生かされていると感じたなら、すべての事象は私に同化していく事だろう。世界はねじまがり絶対悪そのものと感じたなら、すべての事象は私に異化されていく事だろう。

しかし、現実はその矛盾する二面性を併せ持っている。
人は無自覚にも何かを感じ取って生きている。
その感じたように変化を産み出している。

それを楽しむか?権力者のようにコントロールしようとするのか?
そこに自由が与えられているかのように錯覚している。そこから生まれる競争は我先にと他者を蹴落とすサバイバルになるだろう。


快であろうと不快であろうと生々しい現実は感受性によって歪曲され、生きる力となって発揮されていく。

相性があるでもなし、事実があるでもなし、好き嫌いがあるでもなし、この絶妙なる感受性の働きこそが私を変化させていく。

それが人にとっての自然という事だ

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