正しさよりも楽しさ

以前、ある一組の夫婦に一本の筆を持ってもらい、一緒に字を書いてもらうという稽古をしてもらった。

男性はおもしろがっていたが、女性の方は書き順が違って混乱した。とても疲れたという感想をもらった。

相手と同調して動く、一緒に動く心地よさを経験してもらいたくて、こんな稽古をしてみたのだが、
こちらの思惑は見事にはずれてしまった。

しかし、こんな光景は日常にごろごろと転がっている。
だからこそ、この心地よさを知ってもらいたく共調関係の面白さを伝えたくてやっているようなものだ。

書き順といえば、僕が小学生の時に漢字ドリルの宿題をやっていた。
その時に、横で見ていた母親に書き順が違うとこっぴどく叱られ泣きじゃくった思い出がある。
先生に習った通りに、漢字ドリルに書いてある通りに書いているのに、何故僕は怒られるのだろうか?と思ったが、母親も先生に習いその当時の漢字ドリルの通りに書いていたのである。
つまり母親の時代の書き順と僕の時代の書き順が違っていたのである。
それが判明すると母親は謝ってくれた。

後日、何故時代によって書き順が違うのか聞いて回ったが誰もそんなことを知りもしないし、興味もない、だんだんと僕の中でも関心が薄れていった。

だが、それが「正しさ」や「真実」と言うものに疑問もった最初のきっかけかもしれない。
時代によって変わる正しさや真実や常識といったものは数多にある。自分が納得いくまで考え抜く、やり続ける。安易に周りに妥協しない。
そのやり方が自分のリアリティを形成していく。
誰かと共有できればなおいい。

文字や文書、句読点の打ち方の是正よりも、ただ、単純に読めればいい。
だれかに伝わればいい、それを基準に考えている。

そんなある時代の空気やある種のイデオロギーに振り回され感情的になり、これこそが正義だと善人面して肩を張って歩く趣向は僕には到底できそうもない。

外国歩いていてもそうだ。
結局誰かと話が通じるときは、文法にかなった喋り方をしている時ではない。
気持ちが前面に出た喋り方の時だ。
それを実体験して学んできた。

正しいやり方なんてないんじゃないだろうか?
書き順や句読点、息継ぎの仕方は身体の運用の違い、それこそ身体が個性でいいじゃないか
ただ、楽しいやり方はあると思っている。
その追及が形式や各種のやり方を生んできたのだと思っている。




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