やっと九月だ

ながい八月だったなー。
第一関門やっとこさクリアしたら第10関門まあったかのような感じ。
自分の手に余るようなこともいっぱいありましたな。もちろん全力でやりましたが。
色々片付いてひと段落。
やっと憑き物が落ちた感じさえもある。

息子はひと夏の恋を経験?
日に日に生意気になってくる。
親父を下僕かなんかと勘違いしてんじゃないだろうか?


だいぶブログ内の記事も整理できたし、整体コラム欄はしばらく落ち着きそう。
というかしばらく書きたくないような気もする。自分の言葉に振り回されているのは少々疲れる。(でもリクエストあればいつでも書きますので。)ほんとはもう少し人の内面を掘り下げたことを書いてみたいがそれにはもっと経験が必要なんだよなー。
しかし、こんなブログ会員さん以外いったい誰が読んでんだろう?


様々な気づきはあれど、一番は人は追い込まれると本性を発揮すること、自分でも知らない力を発揮することと、その働きもどこかから、あるいは誰かから伝わってくるという事だった。

誰かが、怒りに任せて行動すると運に見放されると言ってたけどそれも身に覚えあり。
周りを見渡してもたくさんいらっしゃる。まあ、そういう時は自分の事だけに囚われがちですが、みていてとても見苦しいもんです(笑)。
外から見てもそう見えることでしょう。(笑)
ただ、それもどこかから伝わってくるし、伝えているもんだ。不安や怒りや何かにとらわれての行動は何も生みはしない。停滞していることに気づくというのはなかなか認められないものなのだよなー。
まったく毎日が勉強ですな。


真っ白になって自分の中のありったけをだそうともがけばもがくほど、確かに力は沸いてくるかのように感じるが、その力自体が先達者たちからの影響を伴って出てくるというか?どこかから伝わってくる。

例えるならリレーのような感じ。

前の走者が力を振り絞って走りきるから、その力を乗せたまま次の走者に託していくような自分はその中間者、過程の中をただひたすら力を出し切って走っているような、前の走者には戻れず、次の走者にもなれない。自分の仕事をするしかない。て手渡されたバトンを次に託す。そんな感じ。

そうだ、連歌でも例えられる。

前の人が5,7,5を歌にするから、それを受けその世界観を壊さぬよう広がりを持たせつつ自分の歌を詠む。そこにある種の共有する深さが生まれていく。(今度、稽古でやろ)

オリジナルなんだがオリジナルでない、模倣なんだが模倣でない
その中間、その曖昧さが丁度良いのだ。
外側と内面の中間とでも言うか。
能動と受動の間の中動態。

そういう経験をへて、やらなくてもよい仕事に気づかされ、自分の仕事を見つけたり、あるいは探してみたり。迷って見たり。背伸びをしてみて、自分の幅に気づかされたりと、他者を通じて自分を知ったりもする。

こういう自分であらねばならないという意思をもってもがけばもがくほどドツボにはまって本質から遠ざかっていく。身体の不調や運気の停滞期などにそれが顕著に表れてくる。
思い通りにいかない、もっと積極的にいこうとか、大体年齢的には40代くらいから多いかもな。

そこらへんについてはまた後日、記事にしようと思う。

あ、またネタができてしまったなー

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