祖父と煙草の思い出

誰かと煙草の話をしたせいだろうか。
それとももうすぐ彼岸が近づいてくるからか、そのせいか祖父の事を思い出した。
十代の終わりごろに大阪に出た。
三年くらいたった頃金沢に戻ると、祖父母の住んでいた土地に新築の居を構えて、両親達は二世代同居生活を始めていた。
いつも祖父母の家を訪ねると、和服に座椅子で迎えてくれた「かくしゃく」とした僕の祖父は、着物ではなく作務衣に代わり、車椅子に座って、デイサービスの方からは「かっちゃん」と呼ばれる愛らしい好好爺になっていた。

脳が段々と萎縮してスポンジ状に変わっていく病気を患い、段々と筋力も衰えてきて、口数も少なくなり、孫の顔もわからなくなっていったが、ぜんぜん手のかからない人だったと思う。
時々、急に記憶が戻り皆の顔を思い出す時があった。
それは一人でテーブルに車椅子で座っているときに、誰かが置いたであろう煙草に手を伸ばし、慣れた手つきでトントンと煙草を一本取りだし、いつもは震えている手がピタリと止まりシュボッとライターで火を着けて、キューっと煙草を旨そうに燻らせていたときだった。
そんな時は大抵、こちらにくるっと笑顔を向けて、「オオ、日向、いつ帰ってきたんや?」とこうくるのだった。
大阪から戻って来たことや最近の近況や一緒に住んでいるんだよ、と伝えても次の日にはいつものボケた好好爺に逆戻り。
煙草を吸わせると記憶が戻るんじゃないかと、何度か吸わせて見ても何も変化はない。
だが記憶が戻る時は大抵、自分で煙草に手を伸ばし旨そうに一服しているときだったから不思議だ。

そういう時は二人で一緒に一服したものだ。
「爺ちゃん、この煙草旨いかい?俺にも一服分けてくれよ?」というと、
「お前も煙草のむのか?あんまり身体によくねえげんぞ」とかいいながらも、嬉しそうにトントンと叩いてスッと一本出してくれたのだった。

今より分煙化が進む前の話だ。

旨そうに煙草をのんでいる爺さんの横顔がすごく幸せそうだったのを今も在り在りと覚えている。
それから程なくして逝ってしまったが、死ぬ前にもう一服してもらってあの「かっちゃん」スマイルを拝んでおいても良かった。

まあ、あちらでも旨そうにふかしていることだろう。

煙草が有害か無害かの話はどうでもよく、その手の話を聞く度に、この思い出が霞んでいきそうで少し悲しくなるのだ。


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