一つの見方は

金沢の徳光パーキングエリアにて。
昼食にパンを買って食べていたら、ちょうど座っている窓の外に石碑がたっていた。
なにやら文字らしきものが彫ってある。

朝顔や つるべとられて もらい水

加賀野千代女の俳句だ。

どういう情景を読んだものだろうか?と思い巡らしていると、隣の席の連れも同じ事を思っていたらしい。

あれはどういう意味か知っているかと聞いてきたので、朝顔が水を欲し蔓を伸ばしていたら、何らか伸ばせなくなったか、あるいは蔓が伸びて近くの朝顔に触れて蕾にたまった水がこぼれ落ちて、もらい水となったかと、想像を巡らし、その解釈を述べてみた。

が、それは違うらしく、本来は加賀の千代女が朝に井戸水を汲もうとしたが、朝顔の蔓が伸びて絡んでいたので、それを外すのは可哀想と、井戸水を汲むのを諦め、よそにいきもらい水をした。

その優しさを歌ったものであるらしい。

そのときの連れの顔が私の方が教養が有ります的なドヤ顔で、こう理解するのが正しいと言って来たので、少々ムッとして、
なるほどなるほど、では君の解釈を聞こうか?と持ちかけたが、意を介さない顔をしているので、今のは一般的な解釈であって君の解釈ではないだろう。君はどう思ったがが知りたいのだ。と告げたが、
いつまで経っても出てこない。

連れから見たら僕は意地悪でへそ曲がりなのである。

僕は昔から一般的な解釈を聞けば、なるほどと思うが、考えがそこに定位してしまっては新しい考えは生まれない。これでいいのだ、と安心してしまっては新しいやり方は生まれない。だからこうだと決められた事があればこうは考えられないか?と新しいものを探す。
赤色は精神を興奮させる色なんですよ、と教えられれば、なるほどとも思うが、精神が興奮しない赤色はどんな情緒を生み出すのか?と考え探す。

これはこういう風に見るのだと教えられてもなるほどとは思うが、その見方がつまらなければ、おもしろい見方を探す。

もし、学校でそう教えられたのだとしたら教育はある一つの解を提示するのが目的であるはずがない。

それを下地にこういう見方もできます。
こういう風にもとれますと、解を相対的にして問題意識を共有させることに目的があるはずだ。
個人の考えるフレームをどんどん変容させ、そのキャンバスの中にはこんな色もあるあんな色もある。
あるいはこんな色も塗れる、あんな色も濡れると主体性を養っていくことに意義がある。

一つの色だけを提示し、こう塗らねばならないのだ、と押し付けることは洗脳だと思っている。自由を奪っているとすら思ってしまうのです。

これでは自分で考えられない大人が増える一方だ。

皆、誰かの言ったことを理解するためだけに自分の脳みそを用いるのだ。
自分の考えを育むためには、自分の感じたことや経験や解釈に自信を持ち、堂々と議論すればいい。考え抜けばいい。
その解釈もいい。この解釈もいいと議論を重ねる内に自然と合意は得られるだろう。
じゃなきゃ俳句に連句なんて生まれて来ないのだろうと思う。

一つの見方の押し付けには息苦しさしか感じない。

できれば三つくらいの見方が並列してあれば考え方にも進め方にも余裕を持って楽しめるだろう。

というようなことを熱すぎるほど熱く語っていたら、後で隣に座っていた人に握手を求められてしまったのだった。

熱く語りすぎてしまった。なんとも恥ずかしい思いをしてしまった。


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