なんだかなあ

躾と称して我が子を虐待している親は多いかも知れない。

夫婦関係のこじれもそうだが相手を見ていない。
いま現在の自分の感情をどうにかしたくて相手にぶつけているだけだ。
しかし、その関係性は当人たち同士にしかわからない。

こちらは横で見ていて気分が悪くなることもあるが、関わりがないからと指をくわえて見ることもあるかもしれない。

関わりがあり、同じ家族内であったとしてもこちらに気力の充実やよほどの考えがないと介入が阻まれる。
本人たちに変える気がないと何もできないし、起こらない。

ある人はうちの孫娘は正座を教えてもまともにできないという。
その子を型にはめるよりも先にその子が形成している型をご覧になってはいかがだろうか。

時に関係性が身体に症状として表れる事がある。

母親がガミガミ口うるさく言うようになってから身体が捻れ出し痛みが出た子がいる。
病院に連れていき手術を受けさせるという。
その子はずっと母親の決定に従い生きてきた。そのままでいいのだろうか?
母親がその子を病気にしていると思うのだが、その子もまたその決定に従い生きていくのだろうか?

無理難題を上司に押し付けられ、鬱になるひともいる。
気の毒な話だ。理不尽なことを言われる会社員は多いだろう。
会社を止めて企業したいらしいが、誰か誘ってくれないか?とただひたすら待っている。
その態度が上司の逆鱗に触れていることに彼は気づけないままなのだろう。


授乳中に亭主と喧嘩になり、背中を蹴られお乳が止まる人もいる。
ひどい話だ。あってはならない。
亭主は魔が差したと反省していたが、先にカッとなり股間を蹴りあげたのは奥方の方であったらしい。

我が子が理解できなく人と違うからと病院に連れていくとなんでも多動性障害と診断され、薬を服用されみるみるうちに生気を失った目付きとなった。
彼はただ言葉足らずでなんにでも興味を持つ優しい少年だった。
彼の興味までを失わせる必要があったのだろうか?
母親にはあったのだろう。とても満ち足りた顔になったのだから。

等々。

しかし、その関係性によって訴えてくる身体の症状は精神や心理作用によることが多い。
その心理は他者と共に作り上げた心理だ。
よくも悪くも自分は既にそこに関わっている参加者だ。

参加者であるならそれをそのままというのもよし。
変えたいと願い、行動に移すもよし。
思い切って参加する場所を変えるもよし。
関係を絶って引きこもるもまたよし。


貴方の自由なのだ。

だが、そんな自由はぼくにとってはなんだかなあ、なのである。


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