比べるから

30代という年齢について考える。

最近のドラマでも漫画でも映画でも何でも、30代の生活苦や人生観等を扱ったテーマが多いような気がするのは自分がその真っ只中にいるからだろうか?

そんな30代の活躍に嫉妬したり共感を覚えたり、 わからなくなったり、理解を示したり。


仕事や家族、育児、持ち家問題や年齢、健康問題、人によっては結婚や親の老後。繋がる社会や政治・経済の事等を通して皆頭を悩ましたり身体をこわしたりしている。
色々な気づきや感情に振り回されていたりもする。


10代や20代にはわからなかったことや気づいていなかった事に、今更ながら見えてきただけといえばそれまでだが、そんな現実や空想のドラマばかりに目がいってしまう。

でも、そこには様々な今しかないようなドラマもある。

持つもの、持たざるもの。


行き遅れたと感じるもの。

苦しむもの。


足りないと感じるもの、羨むもの、喜びに満ちて見えるもの。

何かと比べてそう見えるのか?

伴侶がいる、いない。


子供がいる、いない。


家がある、ない。


仕事が順調、不調。


仲間がいる、いない。

お金がある、ない。

数え上げればきりがない。

2つの間で揺れ動くから余計に苦しい。
誰かと何かと比べるから余計に追い込まれたりもする。
一つに集注していると他が見えない。
一つ得れば何かを失う。
皆それぞれの欲求に従って生きているだけなのに、誰かと比べていると自分が見えない。


外から自分を客観視しているだけだったりする。

逆に自分と比べると、他者が見えない。
これでは共有できる喜びに達しきれない。

ドラマや物語の世界では主人公はそこから活路を見いだし、内なる声に従って突破口を切り開いていく。


誰もがそんな物語を信じたいかも知れない。


そんな簡単に物語は進めばいいが、現実はそう簡単に甘くはいかない。

その現実を受け入れやすくするために様々な理想や空想から色々な物事を産み出してきた。

アメリカ型のエンターテイメントでは悲しい場面には、逆に決まって明るい曲を合わせて場を乗り越えようとする。お国柄なんだろう。

悲しい場面には悲しい曲を合わせるのは古くは能や文楽、浄瑠璃や旅芝居など、その合間に狂言が挟み込んであったり、別の演目や歌舞伎などかあったりするが、悲しい場面には悲しい曲を順に合わせるのは大体、同じだと思う。


悲しみきるから後の喜びがおおきいのだ。
心のままに行けという古からの伝言なのではないかと勝手に思っている。

泣きたい時には泣き。


羨む時は羨み。

落ち込みたいときは落ち込み。


怒りたいときには怒ればいいのだ。

それが人間の自然なのだと古人が背中を押している気がする。

30代は生活基盤やペースが決まって来るので、余計に人との違いが浮き彫りにされ、人と比べる事に過敏になるのかも知れない。

それがあるから自分のエゴに苦しんだり、逆に慰められたり安らぎさえ覚えたりもする。

でも、それも人にとっての自然なら比べきった後には何かが待ってるじゃないだろうか。

そんな事を考えたり、喋っていると妙に落ち着いたり、希望を持てたりするから人の心はおもしろい。

ただ、単に自分がそこにとどまっているだけと理解できたときに、突き進むしかないとわかってくる。
突き進む気力・体力が欠乏しているのなら残念ながらとどまったままだ。


ただ、それも自分の観点がぐるりと変わり世界との触れ方が変わったときに、自然と
突き進めていたりするもんだ。

人はそんなにやわじゃない。
追い込まれれば追い込まれるほど湧いてくる力がある。

僕らはそんなことを変えようと稽古していたりもする。


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