摺り足

昨日はあたり一面雪真っ白。
と思ったら今日は快晴。雪が解けて地面がグチャグチャ。

前にも書いたが雪が降り積もると暖かく感じるのはなぜだろう。
雨が降っている方が冷たく感じる。

金沢はべた雪なので深夜には路面がつるつるに凍る。
それをこちらの方言ではきんかんなまなまという。
なんでそういうかはまったくわからない。

こうなってくると皆足元に気を払い、そろりそろりとあるくようになる。
習ってもいないのにすり足になって歩いている。
滑らないようにつま先に気を払い歩くと膝や股関節までロックされるので、かえって怪我のもととなる。
それよりも足裏・踵が地面すれすれに滑るように動くと、体幹は緩み疲れない。
重心が腰まで落ち、捻らないので泌尿器も丈夫になってくる。
環境に適しようとした結果、身体の使い方を新しくそれに合わせる。
習ってもないことなのに身体の内側から動きが出てくる。それが本当に不思議だ。
それらが箸の使い方や子供の歩き方・座り方にまで継承され、それらを各種武術の型や作法等に体系化され残されている。
日本人の知恵の奥深さといえるだろう。
ネイティブ・アメリカンにも「スライド」と呼ばれる、すり足によく似た歩法があるらしい。
一度見てみたいものだ。

このすり足のルーツは田んぼなどの作業時、田下駄などを履いて水面を滑る足の使い方からきていると聞いたことがあるが諸説ある。
雪国などの路面が凍ったところを歩く際の使い方からきているのもあるだろう。

普段重心が高い、いわゆる胸を沿って歩いているような女性もしっかりと重心を落とし、
歩くようになる。
そう見ていくと現代のあらゆる歩法・ウォーキングは皆重心を胸にもってきて膝を伸ばして歩くやり方が主流だが、都会や整備された町での歩法。冬を除いた季節限定での歩き方と言える。
坂道やでこぼこ道、山を練り歩く際などは重心を腰まで下ろし、膝を屈曲しないと歩けないので、環境に合わせて歩き方が変わっていくのが自然だ。用途に合わせて履物を変えている。その種類を見てみればよくわかる。
そういう歩法のヴァリエーションを豊かに持っているといいと思う。それが望ましい。

以前、剣道を習っていた人は前と後ろの動きしかないので身体を傾ける動きができなく、
運動会のリレーの時にグラウンドを一周しようと走り出したら傾けなくてまっすぐにしか走れなかったらしい。自分だけかと思ったら同じ部活の先輩もそうであったので、どうも剣道の動きが関係していると考え、バスケット部の捻る動きを取り入れたら曲がれるようになったらしい。

その時はホントかいな?と思っていたがそうなんだろう。
必要に迫られないと新しい体の動きを求めないしでてこない。

子供たちの動き方を見ているとそう思うようになった。
二月近く膝行であるいていたり、足が折れたからと居合の型でお尻歩きをひと月近くして立ち上がる等、何か必要な動きを求めての事だ。身体に負担がかからないように動いている。もちろんそういう事に鈍い人たちもいる。

頭の知識に頼った動きではなく。自分自身の内側からでた動きに沿っての事なのだ。
考えてみれば人間以外の野生動物は皆そうなのだ。
知識に頼る以前の子供たちは、その野生の声に忠実なだけなんだろう。
そういった身体の内側から出てくる動きが新しい知識を作っていくわけだ。

しかし段々とその声が聞き取れなくなってきているらしい。
四、五年前までは普段どれだけ重心が胸にあり、ハイヒールしかはきません。と宣言していた女性も冬にはしっかりと重心をおろしすり足になっていた。

ああ、この人の中にもちゃんと自然があるのだな、と安心していたわけだが、
なんだか最近の人は歩き方がとても下手だ。
身体を捻って歩いている。それで疲れた疲れたと言っている。
その捻じれが首まで回っているのを見ると、梅雨の時にプチンといって、脳梗塞やらなんやらやらないかとすこし心配になる。
そんな人が一人二人じゃなくて大多数見えるから困ったものだ。
雪が降らないからなのか、どうしてなんだろう。

自然に感応している身体の動き・働きそれらをどう目覚ませていくかが大事になってくる。ちゃんと身体が繋がって動いている人は見ていてとても綺麗だしかっこいいものだ。





コメント

このブログの人気の投稿

あたわりもの

before after vol.7 蜂の巣とコーキング

新年一月・二月の予定