虫の音

聞いた話によると、全世界の民族の中でも虫の鳴き声に情緒を感じるのは、世界広しと言えども日本人とポリネシア人だけだそうだ。

西洋人には虫の鳴き声を機械音や騒音のように処理してしまうらしい。

ある学者が海外での講演会で訪れたとき、会場では虫の鳴き声がひどく聞こえていたらしいが、同席していた現地の人には全く聞こえなかったらしい。
最初は自分の方が気が狂ったのかと疑ったらしいが、一週間ほど一緒に生活した後、確かに虫の声が聞こえる、とわかった男性もいたが、だからどうしたといった感じで、そこには何の情緒も感じ取れなかったらしい。

これはいわゆる脳の構造の違い、右脳と左脳での情報処理の違いと言われて来たわけだ。
それは日本人は欧米人と比べて自然音や音楽や言語を処理するところが違い、それが日本語を母語とする脳の構造の違いを生む。
それがTPPの障壁ともとられ、早いうちから英語教育をという流れや海外留学だったのだが、最近ではそう考えないらしい。

いわゆる日系人でも母語を喋って会話している人はこの虫の鳴き声を音楽と認識でき、日系人でも英語などを母語にしていると虫の鳴き声は聞こえない。聞こえても騒音として処理する。
同じアジア人種でもそうらしく、韓国語や中国語でも英語脳と同じ構造になるとされている。
日本語の母音を母語にするかしないかで、この虫の鳴き声や自然の音を音楽ととらえれるかが決定されると言うのだ。
喋る言葉の違いが脳の扱い方を変えて、情報処理の仕方が変わるというのは、文化の違いがベースになる感受性を変えていくのだ、と言ってもいいかもしれない。
脳の構造の話ではない、それ以前の話と言うことだ。

確かに僕らの文化には虫の音が頻繁に登場する。
古くは万葉集。鈴虫の歌なんてのもある。

対して英語圏では虫はインセクトやバグスと言ってこれは虫けらという少しネガティブな意味が含まれるらしい。

僕が思うに英語圏は視覚認識の文化、日本は聴覚認識から発展した文化だと思う。
言語は意味よりも音、その響きを重要視する文化。
近代はその流れを汲んで何でも目に見える形に文明を発展してきたと言ってもいいかもしれない。
視覚刺激のデジタルアートや目に見えない働きを数字や画像に置き換えて考えてきた文化だ。いや、文化と文明の違いだろうか。

ところで外国の人にしかかからない病気というのがある。
名前はわすれたが、口の形を隠すとコミュニケーションがとれなくなるらしい。
口の形を読む、目を合わすのがコミュニケーションの中核であるらしい。
対して日本人は目なんか会わなくても会話できる。
というか目を合わさない方が深い話ができる。正面を外し、わきに置く文化。
だから西洋ではロゴスが分析や解析が発展し日本では空気を読む、や阿吽の呼吸なるものが発展してきたんだろうか?

しかし不思議なのは、視力を失ってもどこか他の感覚が研ぎ澄まされていくのに、聴覚が失われると途端に人の気配に鈍感になっていく事だ。

勿論、個人差もあるらしいが、一体どういうことなんだろう?


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