「聲」

聲を稽古するとはどういうことだろう。

自分で企画しといて、はて?と考えることとなってしまった。
まあ、いつものことといえばそうなんだが。

今年に入ってから稽古会の一コマ(二時間)ごとにテーマを設けてやっていこうと企んでいる。
この時間は「これ」、この時間は「あれ」といった具合。

あまり一つの時間にあれもこれもと幅広く稽古するよりは、今日は脱力をやる。
今日は行気法といった具合に的を絞ってやった方が実生活に生かしやすい。

その方がこちらもどのくらいの理解の範囲なのかということがわかりやすく、整理されていく感じがしている。

一つ一つのピースが埋まっていき大きなパズルが完成するかのよう。
それが整体以外のジャンルにも繋がるから本当に面白いものだ。

なんてことを考えながら今日は「聲と息のおこり」と自ら銘打った稽古をすることとなった。
ヴォイスワークショップなるものは数あれど、声の出し方に特化するのではなく、
その自らの聲を使って内側に目を向けて身を整える。そんなことをやりたい。

そういう他流派の技法もあるだろうが、ここでしか学べないことをやりたい、
という思いで相変わらずの見切り発車となる。

冒頭は聞くという集注の話から日本語の言語体系は視覚認識ではなく聴覚認識の話から、
虫の音の情緒の話へと結び、自分のつたないバンド・ヴォーカルの経験へと話は飛び、
以前から疑問だったなぜ耳が遠くなると気配に疎くなるのかを持論で説き伏せ、そこからやっとこさ実習に入る運びとなった。

以前山奥の旅館で住み込みのバイトをしているときに夜中することが、なにもないので近くの滝まで行き、滝の音よりでかい声が出せれば声量は上がるはずだと、練習していた時がある。

その時の気づきをもとに稽古を組み立てることにした。
まずは基本練習の「あかさたなはまやらわ」を永遠唱える。

最初は歌謡曲や演歌、浪曲のような声の出し方が段々と沈みがかかり、謡や文楽のような
お経や祝詞のような声の出し方に変わっていく、腹を使うと声の出し方は全然変わるという事を実感してもらう。

その声の伝わり方で体の中の見える世界はどんどん変わる。
これは現代仮名遣いと旧仮名遣いの違いでもある。

現代人は重心が上の方にあり上ずった声になりやすい。とかく若い女性の多くは無理に高音をだそうと首をひねり、捻って声をだす。その無理の仕方を自然のものに変えていく。腹を広げて喉を絞って出すやり方もあるが、これは黒人のゴスペルなどで見られる歌い方でテクニックとして知っておいてもいいが、やはり背骨を壊すことにもなる。脊柱管狭窄症などはその典型。
それを下に下げることで太く響きのあるかっこいい声に変えていく。

それらを立ち姿の型をとりやってもらうことにした。
次回はこれらの声を使って実際に身体の中の動きを誘導するところまで持っていけると面白い。
声を出す職業、司会や接客業、笛などの楽器を扱う方、歌う人にはお勧めの稽古となりそうだ。

3回パックにして出してもいいかもしれない。
書の稽古と並んで、ここからどんな風に発展してくか楽しみな稽古会の一つとなりそうだ。今日だけでも色々発展できそうな事がいくつかあった。

「自分の聲を手に入れる」、こんなキャッチコピーでどうだろう。







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