意識(事の起こり)を読む

沖縄での武術の修行の時の話。
といってもかじった程度の話。

突き・蹴りが合格点をもらえ、昇段した後。
そろそろいいだろうと師匠が武器術の稽古をつけてくださったことがある。
その日の課題は刀の操術について。

真剣じゃないと話にならんから、と師匠自作の刀を持たせてもらう。
この流派は武器術に長けた流派だったので、武器の手入れは自分で行い、自作することも多い。
聞いた話によると上原先生は武器の手入れの為の部屋があり、その部屋で武器をつくっていたこともあったらしい。

相対稽古は簡単なもので、お互いが刀を持って立ち会う。
そして切り込んでいき寸前で止めるというもの。
もちろん怪我などないようにお互いがある程度の熟練者であり、自分の身体をしっかりと止められる者たち用の稽古である。

なんでか知らないが、その稽古に混ぜてもらうことができた。
これが武の世界、戦場での立ち合いであると、一つ先の事を弟子に体験させてあげようとという師匠の計らいだったのだろうと思う。

さて、持たせていただいた刀は柄がシダ植物のつるでグリップを補強したかのような形状であり、刀身こそ反っているので日本刀の形状なのだが、柄だけ見ると少々変わっていて沖縄仕様なのであったが切ることに関してはさほど問題ないといった感じだ。

「どこからでもかかってきなさい」というような漫画のようなセリフから立ち合いは始まる。が、その場面においてはそんなことも思いもしない。張りつめた空気が立ち込める。

とりあえず両手で構えた中段の構えを取ることにした。
切り込んでいくときに両手を振り上げるので胴ががら空きになるが、その時はそれしか知らない。師匠も同じ構えを取るが、なんというか隙がない。なかなか打ち込める気配が出ない。

どういう角度で、どちらに入り身するかで侵入しようかと、そちらの方向に気を向けると師匠の構える刀の切っ先がこちらの胴体に向けられる。
これでは自ら刺さりに行くようなものだ。
先の先を制すとはこのことか?
こちらの意識の形が目に見えているのか?
左に飛び込もうかとそちらに気を移すと、切っ先はそちらに向く。
右なら、その先に切っ先を向けられる。
しばらくその攻防は続き、少しづつ構えも変わっていき、こちらが上段なら相手は袈裟に構える。
袈裟の下段ならそれに合わせて種木と対応していき、なんだかこちらがますますと追い詰められていく。

刃物を向けられる経験はなかなか日常ではない。
なれたところでやはり怖い。着られることはないとわかっていてもやはり恐怖だ。

こちらが体勢を変えようとすると、こちらが動くより先に相手の切っ先がその方向に向いてくるのである。相手の刀がこちらの胴体の中心をとらえてはなさない。こちらの意識の起こりをとらえているのだ。その恐怖は尋常ではない。武は間違いなく生き死になのだ。という事をじりじりと体に刻み付けられていく。

この立ち合いの中で何回僕は死んだのだろうか?
身体が重い、思考が言葉にならない。自分の呼吸音だけが静かに聞こえる。
生き死にに直面している。命だけはとられない。と頭ではわかっていてもこの経験はものすごくリアルだ。精神は疲弊して考えられない。身体は固まって動かないが、ある一点だけ動きそうなところがある。そこに目をやるやいなや身体は勝手に動き出し、師匠に切りかかっていた。
気づくと目の前に刀身が迫っていた。師匠はもう一つの手で、刀を握る僕の両手を抑えていた。

「はい、はい、そこまで。なかなかよかったよ」と一息ついて刀をやっとおろすことができた。ドッと息が入ってきた。とても貴重な体験ですごく面白かった。

こちらの意識の起こりに合わせて刀の向きをそれに合わせていく。これにはまいった。
相当あせる。なぜばれるのか?どうして?といった考えが次から次へと湧きおこり、立ち合いの邪魔をする。自分が自分の邪魔になる。それを鎮めたところで今度は身体が動かない。なんとか動いたもののすでに切られている。張りつめた緊張が身体にまとわりついて離れない。ここなら動くとやっと見つけた緩みの一点に刀の切っ先を向けられる。それの繰り返し。
真剣同士の立ち合いとはこういうものなのだ。これを何回も立ち合い自分自身に生死を刻み込んでいくのだ。精神が固まって動けなくとも、それに呼応しない身体の一点からなら動けるという経験はとても新鮮なものだった。(結果、切られたわけだが。)
そして、何回も立ち合いを繰り返すうちに、その一点を身体の中に見つけていく事。拡大していく事。そのために精神を自粛すること、(我を小さくするという事と通じるかもしれない。)を発見していったのだった。

昔の武芸者たちは戦場などでは一瞬一瞬が生き死にが関わっているわけで、余計な思念に惑わされないよう、どんなときも身体が軽く動くように稽古していくわけだが、拳禅一如とあるようにその余計な思推が入らないよう、その”無”なる境地を求めて修行していったわけだ。こういったところで武芸者や能などの演者が座禅などに”無の境地”を求めて邂逅していったのだとすごくリアルに納得できた
こういった経験から物事を考えると禅などの公案もすごくわかりやすく思えてくる。

生死が掛かってないとても便利な現代に暮らす我々はこういった経験を、言葉ではわかるだろうが、経験として理解することは難しいだろう。生き死にから離れすぎている。
意識や人間の深層心理の研究は盛んだし、今後ますます発展していくだろうと思うが、生き死にがそこに掛かっていない以上、全然別のものが見えてくるだろうと思う。
物を見る視点か生物を見る視点かの違いだ。

この立ち合いの経験から僕は物事を言葉だけで理解することの浅はかさを覚え、本やネットなどの知識を丸のみにすることをやめた。よく、話している相手にすごく本を読んでますねと言われることも多いが実はあまり読んでいない。経験が書いてある本しか読まない。知識に頼る虚しさを覚えた。緩むだけの健康観に疑問を覚えたのも精神操作系の所謂ポジティブ・シンキング等の考え方に物足りなくなったのもこの頃のことだ。
この立ち合いの中での小さな自分こそリアルなのだと考え、自分の経験で勝負できるように生きようと思い、身体の中に眠る様々な可能性に目を向けた。そして様々な身体感覚の理解・発展に努めた。その努力の結果多様な精神性も生まれたかーもしれない。

沖縄の師匠はそれを「武」を通じて教えようとしていたのだろうと思う。
次回はハブと闘った話です。



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