具体的にどうするの?

最近、第一子が生まれたばかりの若い夫婦が来られた。

育児相談か産後の調整が希望なのかと思ったがそうでもないらしい。

ただ、話を伺っていると家族に薬は飲ませたくないし、自分も現代医療にはかかりたくないらしい。

こういった若い人たちが最近増えてきている気がする。

現代医療の方向性が見えない、ワクチンの弊害など、頭を悩ます母親は多い。それだけでなく人と人との関係性がどうも希薄に感じてしまうのは僕だけではないのだろう。皆の共通する思いになってきているのだろうか。

自分の親世代がリタイアし、薬を飲み続け、自分の世話を医療に任せきった果てが老人ホームでの孤独死。
その姿、生き様に憧れられない、見ていて辛い、過剰な医療信仰が共感できない。
と、言うようなことが節々に出てくる出てくる。

無理もないだろう。人の生きざま、死にざまがとても見えにくい時代だ。
だから自分で創造していく楽しみがあるのだが、其れを生み出すには僕らにはまだまだ経験がないのかもしれない。

そのせいか、いわゆる自然派志向の人たちがちょくちょく訪れるようになってきた。
大きいフレームでとらえれば僕のやってることなんかもそういう文脈でとらえることができるのだろう。叔父は自給自足の実践者だし、僕は小さいころからいわゆる食育(無添加、無農薬)のものを取るよう教えられてきた。
(コカ・コーラは飲みたかったし、どぎつい色したお菓子もたくさん食べたかった。)

それ自体は全然いいと思うのだが、みな理想は語るのだが具体策がないように感じる。
薬を飲みたくない、病院に行かない、山で暮らしたい、自分でなんとかしたい。

そう決断できることは素晴らしいと思うし共感できるのだが、それは理想だ。

その理想に近づけるために何をするのか。
そこが抜け落ちてるような気がしてならない。

この若い夫婦たちはどうやってかわいい幼子なり、自分のわが身を守るのだろうか?

いや具体策はあるのだが、これは安全だから、流行っているから、理屈に合っているからという思い込みが先行して、何も感じ取れていないような気がする。
結果にこだわり、どういう過程を経ればそこに到達できるかの視点が欠落しているような気がしてならない。


目的の為に自分で何かを成し遂げようとした人たちは、無自覚でも自分に訓練を課すだろう。稽古をする。センスを磨く。自分に何か足りないときは師匠を探して啓示を得る。

職人は自分の作りたいものを作り出すために道具の扱い方の訓練をする。
絵描きや書家は自分の描きたい線を書くために、何回も練習する。
トップアスリートは自分のベストを出すために自分の調子をその大会に向けて、一番いい状態に持っていけるよう調整している。
子供だってハイハイから立ち上がる時に、何回も立つ練習をする。身体と対話する。

自転車に乗れるようになったのもそう。
いきなり自転車に乗れた人がいただろうか?

段階を踏んで練習に臨み、何回もバランスのとり方を工夫し、どこをどう扱えばいいかを探し出し、生み出して自転車に乗れるようになっている。

そう、生み出している。
身体の構造通りに動かしているのでなく、その場その場で生み出している。
構造を創造している。
逆上がりができるようになったのもそういう経験だと思う。

身体に関する情報や知識は数あれど、どれも身体はこういう構造を持っているからこう動かしましょう。といっているようなものがほとんどだ。
誰がその構造を決めたのか?

身体の扱い方マニュアルを読んで、その通りに動かしているだけのように思える。
その仮説を皆で採用しているだけである。
しかし、身体は誰の所有物でもないし、脳に全ての答はないだろう、もっと体の働きは自由に富んでいる。


誰も身体の構造は知ってはいても身体の働きを未だ知らない。未知なる部分は山ほどある。
呼吸のメカニズムを紙に起こせても、セロトニンが全てに答えれるとは到底思えない。まだまだ一理、頭をハイにしているだけではなかろうか。
それだけでは足りない。我が子が40度の熱で苦しんでいるときに呼吸法は効果がない。
目の前にゴジラが現れたときにいつも通りリラックスなんてできるだろうか?
各種ホルモンの働きだけでは、身体を部分的にとらえていては何もわからないような気がする。

どうもどれも生存という事から離れているように感じる。
もっとそれに目を向けるべきだ。人は足りないものを常に探し求めている。身のうちに創造する。人はそうやって生存を可能にしてきた。

音楽だってこういう構造を持ってますから、12音律ですから、こういうメロディーラインは売れます!という型にはまった考えからは新しい音楽は生まれてこない。音の響きに美を感じ体系化されたものが構造や理屈を生む。
新しいものはその構造から離れて生まれてくる。

色彩やアートも同じだ。黄金比や遠近法にかなった芸術の理解を習い見れるようになっただけで、それ以外は芸術ではない、わからないのだとしているだけではないか。

この色彩は人をこういう感情にしますという思い込みを共有しているだけだ。
夕焼けの赤色とチューリップの赤は同じですよ。としているだけだ。しかし赤色そのものの経験が違う。
理屈に置き換えたい気持ちは誰しもあるが知った気になるのは怖い。
そこで成長が止まってしまうからだ。その先を知れなくなってしまう。

理屈や理想の前に何があるのか?
それを生み出していく働きとは何なのか?
それを知ることが力になる。AとBを結ぶ確かな線となる。

先日、難病指定された方が来た。
医者から薬を飲みなさいとすすめられるらしい。
ずいぶん迷ったそうだ。
「医者の進める薬より、自分の中に薬を見つけることが重要だ、身体の中を見つめてください。」とお伝えしたら、本人は薬でなく違う方法を選んだ。

自分の元気なところを教えてもらった。それを感じれるうちは自分は元気だ、と確信できる。それから薬のことを考えればいいだろうと、思ったらずいぶん気が楽になったそうだ。

それから具体的に何をしたらいいか?聞いてくれるようになった。

この人は自分の理想に近づく具体策を経験できたのだろうと思う。
AとBを結ぶ確かな線を身のうちに見つけることができたのだろう。

自分の中の元気を見つける、
例えば、ダンスホールに行って朝まで踊りあかしたとする。
その時、自分の中の元気に出会っている。その経験を追い求めて人は生きていく。

それがその人の健康法になり、養生の方法を獲得し創造していく。

自分の中の元気を感じ取る、それがその人の生活を作っていく。

知識や情報を編集することには長けていても、どういう経験が自分を高めていくかを僕らはまだまだ知らないんじゃないか。誰もが最初はそうだろうが。

と、ながなが書いてきたが、だから自分を知る楽しみがまだまだ残っているのだ、と言いたかったのかも知れない。













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