雨に降られて

雨に降られた。

まずい、傘もってきていない。

灰色の空を見上げればポツポツと雨が落ちてきて、顔に心地よい刺激が当たる。



最近は息子を連れての夜のお散歩が日課。
寝る前のちょっとした冒険がお気に入りらしい。

「パパ、今日もお散歩にいくでしょー?」
「お散歩、お散歩。」
風呂から上がって上気した身体を冷ましたいのか。

じゃあ風呂上がりのジュースでも買いに行こうかと、近くのコンビニへ。

真っ暗な夜道は車が危ない、しっかりと手を握っての夜のお散歩。

車が来るたびに、

「あー危ない!」としっかりと気を付けている様子。
しかし、そのあとにブーっと唾を吐くのは何なんだ?だれの真似だ?
頼むからそのまま大人にならないでくれ!息子よ。

父ちゃんの心配をよそに水たまりを見つけてはバシャバシャと長靴を踏み込み歌を歌ってご機嫌な様子。

やっとこさコンビニについて買い物を済ませて外に出たら、あ、雨だ。
ポツっポツっと小さな雨粒が顔に当たる。

早く帰ろうと速足で家に向かうと、途中から本格的に降ってくる。
あっという間に雨音がザーザー、どしゃぶりに変わる。

あっという間にずぶぬれな二人。
大変だ、早く家に帰ろうと息子をおぶって走り出した。
しかし、息子はと言えば、「あー雨ー気持ちいいねー」と、
僕の背中でケタケタケタケタ笑っている。

はっとした。

いつから雨が嫌いになってたんだろう?
僕にとっての雨はただ衣服を濡らす想定外の嫌なものでしかなかった。

息子にとっての雨は想定外の楽しいできごとだった。

こうやって彼の中で、どんなことでも迎入れていく、生きる力が形作られていくかも知れない。
雨に出会った、その経験が生きる力となって蓄えられていく。

雨に触れて触れられてその経験を追い求めて、彼の中の元気が表に飛び出してくる。



芸術家はその”なにか”に出会った経験を絵にするという。
音楽家はその”なにか”に出会った経験を歌にするという。

この何かに出会う・感じとることを感受性と言うのだ。

僕らはこの経験をなににしようか?
そんなことを考えて息子を背中から下して、ずぶねれで帰ることにした。

僕らは理屈で考えることにはなれてはいるが、理屈を生み出すことには慣れていない。
考えることは得意だが、感じることは不得意だ。

理屈を生み出すには経験が必要だ。
経験を積み重ねて感受性を育てていくのだ。


この雨を感じた経験がどんなことを生み出していくのか

「すごいねー」「すごいねー」と雨に濡れて踊りながら歩く息子はとても楽しそうだ。


そういえば嫁さんと一緒になろうと思ったのもこの雨に降られたからだった。

婚約前に新潟と山形の県境の海岸でキャンプを楽しんでいたとき、
朝、目が覚めると海鳴りがしていて、あっという間に雨に見舞われた。

土砂降りの中、しかめっ面でテントを撤収しているときに、ふと嫁さんの顔が見えた。

笑っていた。満面の笑みだった。

その顔を見ていたらなんだかすごく安心してこちらも笑えてきたものだった。
夫婦になるきっかけってこんな些細なことかもしれない。

それにしてもこの息子は血筋なんだろうな。

家に帰ってまた風呂に入ったら息子は嫁さんとすぐに寝た。

ぼくらの雨に降られた経験が生み出したのは、この息子だったのか
と、穏やかに眠る顔を見ながら思ったのだった。










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