無我の音

この間、官邸前のデモで有名なSEALDSという若者団体がフジロックに出演するらしく、「音楽に政治を持ち込むな」と炎上騒ぎになっていたらしい。

フジロックではしばらくの間、整体関係の仕事していたし、
あるステージではずっとNGO団体の方たちがスピーチなり、宣伝をしていたので、
”いや、フジロックってそういうもんじゃん、充分政治的な祭りなんだけどなー?。”
と思っていた。

それにブルースにしても、ロックにしても反体制から生まれてきてるし、帝政ロシア時代に禁止されたのは詩と音楽、民衆が熱狂的になるのを恐れ、それを禁止するのは時の権力者の常套手段であるし、
どこの国の音楽をとってもおおよそそういう歴史がある。
”なんだ、音楽ってもともと政治的じゃないか?なにを言ってんだ、その人の色眼鏡なんじゃないか?”と思っていたのだが、
ふと、じゃあ政治的じゃない音楽って何なんだ?と考えた。
なんの主義・主張も感じさせない音楽?。

ただひたすらその音になり染まるとでもいったらいいのか。
響きそのもの。そういう音楽。

ということを考えたら、音楽に主義・主張はつきものだ、というそういう文脈でしか音楽をとらえていないことに気づかされてしまった。

結局このアーティストはいいとか、このジャンルはこれこれこういう歴史があってとか、いろいろ喋れる知識はあるがアウトラインしかわかっていないのではないか?
自分の主義・主張に近いことを言ってるアーティストを選り好みし、識別していただけだったのだ。それを表現だと思い、そういうものを求めていたのかもしれない。

しかし、その人の音を聞いていると、ある風景が見えてくる。そんな音楽もある。
それは確かに政治的じゃない、押しつけがましくない、理屈っぽくもない音楽だ。

主義・主張以前の音楽とはこういうものだろうか?
喜びや楽しみや様々な情感を伴って生まれた音楽はいつしか理論武装し、”ワレ”を表現することを当たり前としていくのか?
だとしたらそれ以前の音楽とはどういうものなのだろう?

我を忘れられる、言ってみれば忘我の音とでも言ったらよいのか。
悲しみも喜びも今自分がとらわれていることを、きれいすっぱり忘れさせてくれる、無になるそんな音楽。



フリージャズが生まれたバックボーンにはタオイズムを音で表したいというような野望があったと聞いたことがある。

彼らはそんな忘我の境地を音で表したいと考えたのかも知れない。

そういう境地が皆に共有され、政治という色を帯びてくる話は確かにあるだろうが、忘我、無の境地に価値を置く体系は過去、確かに日本において共有されていた。

様々な武芸者、能楽師、仏教者と様々なジャンルの人達がこの境地を目指して修行していた。
世阿弥は舞手には位があると言い、格式があるといった。
彼の紡いだ物語は充分、時の権力にあらがっている。
しかし、多くの侍たちが彼の舞にしびれ、今なお語り継がれているのは政治的というだけでなく、なおかつそれ以上に格式があったからではないかともいえる



我を忘れる、無になる。
それは誰の所有からも離れた音。
do play music ではなくbe play music?
”する”音楽ではなく”なる”音楽。

だから、そこから格式や風格や何かが生まれてくるのか
無から有が生ずる。

何も無い音、それはいったいどういうことだろう。
そんな音があるなら一度経験してみたいものだし、そういう境地を目指して活動している音楽家の方がいるならお会いして話を伺ってみたいものだ。













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